基本編 右アッパー(4)

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基本編 右アッパー(4)

「ウーッス」  出入口から聞こえて来た挨拶の声に、ジム内に居た全員が反応した。声の主は、昨日試合を終えたばかりの友永だった。近くに居た練習生達が口々に勝利を祝う言葉を友永に贈った。  事務室に引き上げていた大森が、湯飲みを片手に出て来て友永に問いかけた。 「何だユージ、何しに来た?」  三枝もリング上から声をかける。 「どうした? 今日は休んでろよ」  友永は大森と三枝を交互に見ながら答える。 「いや何か、昨日二ラウンドしかやってねぇからかそんなに疲れてないっつうか、家に居ても落ち着かなくてさ。練習はしなくてもジムに顔出すくらいはいいかなって」 「余裕ッスねぇ祐次さぁ~ん」  三枝の後ろから井端が気の抜けた声で言った。見咎めた友永がからかう様に返した。 「おぅイバ、酒抜きに来たのか?」 「祐次さんが飲ますからでしょ~」  井端の抗弁を苦笑で聞き流した友永を、三枝が呼んだ。 「おい祐次、ちょっと」 「はい?」  事務室に向けかけた足を止めて、友永はリングに歩み寄った。三枝はコーナー際でしゃがみ込み、サンドバッグの方を指差して告げた。 「せっかく来たんだ、利伸の右アッパー見てやってくれよ」 「え? もうアッパーやってんスか?」  三枝はゆっくり頷いて続けた。 「あいつはなかなか飲み込みが良いからな、今日初めてやったのにもう結構様になってるよ」 「へぇ、判りました」  友永は軽く会釈して、くたびれ気味の井端を一瞥してからジムの奥へ行った。見送った三枝は、パンチングミットを両手に嵌めて立ち上がり、井端に向かって大声で告げた。 「さぁ行くぞ!」 「ウッス」  吐息混じりに返事した井端が、両拳を重そうに上げてファイティングポーズを取りながらリング中央に進み出た。三枝はミットを打ち合わせてから身体の前で構え、コンビネーションを告げた。 「ジャブ二発から左ボディ右ボディ、ダッキングして左フック」  頷いた井端がパンチを振るが、いまいち威力が乗らない。 「おい、腰入れろ!」 「オッス」  もう一度同じコンビネーションを打つ井端だったが、どうしても力が入っていない様子だった。そこへ、友永の声が飛んだ。 「イバ! シャキッとしろ! それじゃゲェンサッグどころか今宮にも勝てねぇぞ!」 「ハイ!」  井端がそれまでになく気合いの入った声で返事した。  友永が口にしたふたりの名前の内、ゲェンサッグとは現WBC世界スーパーライト級王者のゲェンサッグ・サムゴージム、今宮は現日本スーパーライト級王者の今宮圭人の事である。どちらも井端が意識するボクサーだった。  それ以降、井端のパンチの威力が少しずつ増した。三枝は井端を見事に鼓舞した友永に、心の中で感謝した。その友永は、サンドバッグの脇で利伸に身振り手振りを交えて右アッパーの指導をしていた。  三ラウンズのミット打ちを終えて、三枝はヘロヘロの井端を労ってリングを降りた。ほぼ同時に、利伸が友永に会釈して腹筋台に移動していた。三枝はミットを外しながら、友永に話しかけた。 「どうだ? 利伸は?」 「あぁ、確かに飲み込みは良いッスね。教科書通り過ぎる気もするけど」 「どういう事だ?」  友永の意見を聞いた三枝が更に質問する。友永は腹筋を始めた利伸を見てから答えた。 「アイツは、教えられた通りにはやれるけど、試合とかで状況に応じて柔軟に打ち方を変えられるかっていうと、そうでもなさそうなんだよなぁ」 「あー、なるほど。結構真面目そうだからな」  三枝も同調して利伸を見た。今行っている腹筋も、ほぼ直角に脚を曲げて一定のリズムを保ち、愚直に取り組んでいる印象だ。 「まぁ、実際にコンビやらせてみないと判らないッスけど」 「そうだな」  ふたりは話を打ち切り、揃って事務室に入った。椅子に座って茶を啜っていた大森が、湯飲みをデスクに置いて友永に訊いた。 「どうだヒョロは?」 「上手くなってますよ。あれだけ成長早いと会長もノボさんも育て甲斐あるんじゃないスか?」 「ああそりゃーもう、なぁ三枝よ?」 「はい、そうですね」  大森に同調しつつ、三枝はデスクの脇に置かれた湯飲みをふたつ取り上げ、両方に茶を注いで片方を友永に促した。友永は軽く頭を下げて受け取り、三枝は空いた椅子に腰を下ろして茶を啜った。 「会長、井端なんですけど、試合どうします?」  三枝は、青ざめた顔でスポーツドリンクをあおる井端を見て大森に訊いた。大森は残った茶を飲み干してから答えた。 「あぁ、いくつか当たっちゃいるんだがな、なかなか話がまとまらなくて」 「イバが最後に試合したの去年の三月でしょ? そろそろ組んでやらないと、いくら何でも腐っちまいますよアイツ。俺のスパーリングパートナーで終わりたくはないでしょ」   友永が口を挟むと、大森は腕を組んで思案顔になった。そこへ、利伸が顔を覗かせた。 「お疲れ様でした。友永さん、今日はありがとうございました」 「おぅ利伸、またな」 「あ、はい。失礼します」  会釈して更衣室へ向かう利伸を見送って、三枝が言った。 「まぁ、あんまりほっぽっとくと、その内利伸が抜いちまうかも知れませんし」 「かもな」  友永が頷くと、大森が唸る様に言った。 「判ってる、何とかするよ」  直後、井端が大きなくしゃみをした。  
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