番外編 恋(1)

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番外編 恋(1)

 三月も後半になると、『大森ボクシングジム』の風景も少しずつ変わってくる。  進学や就職を機に上京し、ボクシングを始める者、逆に故郷に帰る為に退会する者、様々な事由での人の入れ替わりが起き、それまでとは雰囲気が変化する。  安富雪子もまた、ジムの風景を変えたひとりだ。  雪子は芸能界への憧れを持ち、東京の大学で学びながらきっかけを探そうと上京し、華奢で少しひ弱に見られる体型を変える為に『大森ボクシングジム』の門を叩いた。大森にボクシングを選んだ理由を尋ねられると、「地元でボクササイズやってたんですけど、何か物足りなくて」と答えた。これに気を良くした大森は、早速『ヤスコ』というニックネームをつけて指導していた。三枝はあまり関わらないが、傍から見ている分にはそこそこセンスはありそうだった。  その日の昼間も、雪子は大森の指導を受けていた。基本のステップから、左ジャブのミット打ちとシャドーボクシングをこなし、最後に腹筋をして大森と挨拶を交わした。 「ありがとうございました」 「おお、またなヤスコ」  笑顔で会釈して女子更衣室へ入る雪子を見送った大森に、三枝は事務室から声をかけた。 「会長、あの子えらくお気に入りじゃないですか」  目尻を下げて事務室に入った大森は、三枝から湯呑みを受け取って茶をひと口啜ってから応えた。 「あぁ、ヤスコはなかなかいいセンスしてるよ。まぁ尤もプロには興味無さそうだけどな」 「芸能界志望でしたっけ?」 「らしい。大学に入ったらここだけじゃなくてボイストレーニングとかもするんだと」 「へぇ〜、精力的ですな」  三枝が感心していると、シャワーと着替えを済ませた雪子が事務室に顔を覗かせた。 「ありがとうございました、失礼します」 「おぅ、お疲れ」  大森が右手を挙げて応じ、三枝も微笑して会釈する。  出入口へ向かった雪子の「こんにちは」という声が聞こえたが、それから暫く経っても誰も入って来る様子が無かった。不審に思った三枝が事務室から出ると、出入口から少し入った所に利伸が呆けた様な顔で突っ立っていた。 「おい、どうした利伸?」  三枝が声をかけると、利伸は急に我に返って三枝を見返した。 「あ、あの、チワーッス」  腑抜けた挨拶をする利伸を、三枝は眉間に皺を寄せて注意した。 「何ボーッとしてんだ? シャキッとしろよ!」 「あ、はい」  返事をするものの、やはり利伸の表情には締まりが無い。  いつもより更に緊張感の無い様子の利伸を訝りつつ、三枝は事務室に戻った。今度は大森が三枝に湯呑みを差し出す。 「ヒョロの奴、どうしたんだ?」 「さぁ、何なんですかね? まさか期末テストの結果が悪かったなんて事は無いかと思いますけど」  冗談めかして返しながらも、三枝は一抹の不安を抱いていた。  着替えを終えて出て来た利伸だったが、ウォーミングアップの動きもどことなく緩慢に見えた。だがジムに来た以上は練習はキチンとこなしてもらわなければ困る。プロ志望なら尚更だ。三枝は茶を飲み干して立ち上がり、事務室を出て準備を始めた。  二ラウンズの縄跳びと三ラウンズのシャドーをやらせた後に、三枝は利伸をリングに上げた。 「よし、それじゃ左フックから右アッパー」 「あ、はい」  気のない返事の利伸が放ったパンチは、蚊も潰せないくらいの弱さだった。 「おい、もっと腰入れろ!」 「あ、はい」  注意されて少しだけマシにはなったが、それでもいつもの利伸のパンチでは全く無かった。  その後も何種類かのバンチを交えてミット打ちを行ったが、終始覇気に欠けた印象だった。  あまりの出来の悪さに苛立ちを覚えた三枝は、ミット打ちを一ラウンドで切り上げた。 「今日はダメだ! バッグ打って終われ」 「え……あ、はい」  少々納得行かなそうだったが、利伸は軽く会釈してリングを降りた。三枝もリングを降り、いかにも不機嫌そうな顔で事務室に戻った。 「なんだあいつ、フニャフニャして」  椅子に腰を下ろして独りごちる三枝に、大森が呼応する。 「今日はヒョロっていうよりフニャって感じだな」 「本当ですよ、ミットのやり甲斐が全然ありませんよ」  応えた三枝は、自分の湯呑みに茶を注いで一気に飲み干した。熱さに眉間の皺が深くなった。  練習を終えて、着替えを済ませた利伸が事務室に顔を出した。 「あの、すみませんでした」 「ああ」  三枝がそっぽを向いたまま返事すると、利伸がおずおずと口を開いた。 「あ、あの、さっきの……」 「ん? 何だヒョロ」  三枝の代わりに大森が訊き返すが、利伸は数秒目を泳がせると何故か顔を赤らめて答えず、「失礼します」と小声で告げてそそくさと出て行ってしまった。これにはさすがの大森も呆気に取られた。 「何だありゃ?」
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