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番外編 恋(2)
その夜、練習に来た友永がジム内を見回してから不思議そうな顔で三枝に尋ねてきた。
「あれ? 今日利伸は?」
三枝は苛立ち混じりに答えた。
「あいつはもう帰った」
「へ? そりゃ早い。何で?」
友永の更なる質問に、三枝は心底嫌そうな顔をした。
「俺が訊きたいよ!」
三枝の剣幕に引き気味の友永は、事務室の大森に相手を変えた。
「会長、ノボさんと利伸、何かあったんスか?」
大森はそれまで観ていたテレビから視線を友永に移すと、三枝を一瞥してから答えた。
「あぁヒョロか、あいつ今日に限って何か気合入んなくてな、心ここにあらずって感じだったんだよ」
「へぇ〜、そうなんスか」
三枝の耳に友永と大森のやり取りは入っていたが、特段口を挟む事もないので黙っていた。
翌日、やはり昼過ぎに現れた雪子に大森が指導を行い、一時間ほどで雪子はジムから出た。それから二十分も経った頃に利伸が入って来た。
「チワース」
事務室に居た三枝は、利伸の挨拶を聞くと反射的に飛び出した。利伸は目を真ん丸に見開いてジム内を見回していたが、三枝に気づくと軽く会釈した。
「おぅ、どうした利伸?」
三枝が訊くと、利伸はもう一度ジム内を見てから
「あ、いや、何でも」
と曖昧に返事して、三枝の横を通って更衣室へ行った。微妙な反応に首を傾げながら、三枝は身体を動かし始めた。
今日の利伸は、幸いにも昨日の様な腑抜けではなかったので、ミットを構える三枝もやや安心した。
たっぷり三ラウンズのミット打ちを終えて、利伸にサンドバッグ打ち四ラウンズを指示してリングを降りた三枝に、事務室の出入口に立って様子を見ていた大森が話しかけた。
「今日のヒョロはどうだ? 見た感じはマシだったと思うがな」
「はい、今日はいつもの利伸でした。安心しました」
三枝が笑顔で返した所で、友永が姿を現した。
「チュース」
「おおユージ」
大森が声をかけると、友永は微笑して頭を下げた。三枝はふと思い立ち、友永に歩み寄って小声で言った。
「なぁ祐次、ちょっと頼みがあるんだがな」
「え、何スかノボさん?」
「いや実はな、今日の利伸は練習自体はキチンとやれてるんだが、入って来た時の様子がやっぱりちょっと変だったんたよ」
「変って?」
訝しげな顔で訊き返す友永に、三枝が説明する。
「入って来たと思ったら、何かを探すみたいにジムの中をキョロキョロ見回してんだよ。別に何か変えた訳でも無いのに」
「ああ、そうなんスか。で、頼みって?」
「んー、済まないが、利伸にそれとなく訊いてみてくれないか? 何か気になる事でもあるのかって?」
三枝の頼みの内容を知った友永が、一旦利伸を見てからもう一度訊く。
「いいっスけど、ノボさんは何で訊かないんスか?」
「俺は、昨日大して理由も聞かずに怒ったから、どうも訊き辛くてな〜」
三枝が頭を掻きつつ答えると、友永は数回頷いて言った。
「判りました。何とか話聞き出しますよ」
「頼む」
三枝が右手を挙げて感謝の意を示し、友永も受けて更衣室へ向かった。三枝は後ろ姿を見送ってから事務室に入った。
五、六分ほど経って着替えを終えた友永は、巻き取った状態のバンテージを左手に持ったまま腹筋中の利伸に近づいた。その様子を、三枝は他の練習生を見ながらさり気なく観察していた。すると、友永が突如素っ頓狂な声を上げて笑い出した。
「何ィ? マジかよアッハッハッハ」
キョトンとする利伸を尻目に、友永は笑いを顔に貼り付けたままウォーミングアップに入った。別の練習生についていた大森が、事務室に戻って来て三枝に尋ねた。
「どうしたんだユージの奴?」
三枝も笑顔になりながら答える。
「いやそれが、俺が祐次に頼み事をしたんですけど、どうしたんですかね急に」
その内に、腹筋を終えた利伸が事務室に顔を侵入させた。
「お疲れ様ッス。今日はありがとうございました」
この挨拶に対して大森が「おぅ、またな」と返せば、三枝も右手を挙げて応じる。
利伸がジムから出たのを確認してから、友永がバンテージを巻きながらニヤニヤして事務室に来た。
「何だユージ? 気色悪い顔してんなよ」
大森の注意に肩をすくめつつ、友永は三枝に尋ねた。
「ノボさん、ここに最近若い女の子入った?」
「え? ああ、まぁな」
三枝が濁し気味に答えると、友永は身体を屈めて言った。
「アイツ、どうもその女の子にひと目惚れしたらしいんスよ」
「な、何ィ?」
三枝と大森が、異口同音に喚いた。
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