番外編 恋(3)

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番外編 恋(3)

「そうか、そういう事か」  三枝が数回頷きながら腕組みすると、傍らの大森も感心した様な顔で言う。 「はぁ〜そうか、ヒョロの奴ヤスコに惚れちまったのか」 「ヤスコって言うの? その子」  友永が訊くと、三枝が訂正した。 「いや、ヤスコってのは会長がつけた仇名。えっと、確か安富、でしたっけ?」  三枝に問われた大森が、デスクの引き出しを開けて雪子の入会申込書を確認した。 「そう、安富雪子だから、略してヤスコ」 「今回は捻りが無いッスね会長」  友永のツッコミに、大森が引き出しを閉めつつ応えた。 「うるせぇな、可愛い以外特徴が無いんだよ」 「可愛いんスか?」  友永が、今度は三枝に訊いた。三枝は微笑して答える。 「ウ〜ンまぁ、そこそこかな」 「へぇ、見てみたいな。いくつ?」 「十八。来月から大学生だと」 「え、年上? あっそぉ」  友永はおどけた様な顔で頷き、三枝に向かって言った。 「まぁともかく、相談には乗ってやりますよ」 「すまんが頼む」  三枝の礼に会釈で返した友永が踵を返しかけて、何かを思いついたのか再び三枝を振り返った。 「所でノボさん」 「何だ?」 「奥さんとの馴れ初めは?」 「そんな事訊いてないでサッサと準備しろよ!」  三枝が顔を赤らめて注意すると、友永はわざとらしく肩をすくめて事務室を出た。  その後、幸か不幸か利伸と雪子が再び顔を合わせる事は無く数日が過ぎ、四月に突入した。学校が始まる事によって、春休みの間は昼間の早い時間にジムに来ていた学生達は、学校が終わった夕方以降に練習に訪れる様になる。  雪子は四月に入ってから数日は、入学直後で忙しかったのかジムに現れなかったが、二週目には漸く姿を見せた。 「お願いしまーす」 「おーヤスコ! 久しぶりだな」  ジム内で他の練習生を指導していた大森が声をかけると、雪子ははにかみつつ会釈して更衣室へ入った。サンドバッグの所に居た三枝は、未だに来ない利伸を案じた。  着替えを終えて更衣室から出て来た雪子が、端に腰を下ろしてバンテージを巻き始めた。そこへ、「チュース」と威勢の良い挨拶が木霊した。直後に友永と、何故か井端が一緒に入って来た。 「何だ、ふたり一緒とは珍しいなオイ」  三枝が言うと、友永が笑顔で応えた。 「いや、下でたまたま会って」 「はい。偶然ッス」  井端も同調し、揃って男子更衣室に向かった。三枝はサンドバッグの所から離れて、友永を呼び止めた。 「おい祐次」 「はい?」  足を止めた友永に、三枝は井端を一瞥してから小声で言った。 「そこに居る子が安富雪子さんだ」 「ああ、例の」  友永が頷くと、井端が怪訝そうな顔で割り込んだ。 「何内緒話してんスか?」 「後で教えてやるよ」  面倒臭そうにあしらってから、友永が三枝に尋ねた。 「まだアイツは来てないみたいッスね」 「ああ。まぁ気をつけててくれよ」 「オッス」  請合った友永は、仲間外れにされて不満顔の井端を促して着替えを始めた。  雪子がニラウンズ目の縄跳びを始め、友永と井端が準備を終えた頃に出入口から挨拶の声が聞こえた。 「チワース」 「来た!」  友永が呟き、三枝もすぐに出入口へ目を転じた。案の定、入って来た利伸が呆けた様な顔で突っ立っていた。頬は紅潮し、視線は雪子に釘付けだ。咄嗟に友永が動き、時間が止まったかの様に佇む利伸の肩を強めに叩いた。 「よう!」  我に返った利伸は、相手が友永だと気づくなり慌てて会釈した。 「あ、チ、チワッス」 「ホラ、ここ邪魔だから取り敢えず着替えろ」 「あ、はい」  友永に引っ張られて戸惑いつつ、利伸は名残惜しそうに雪子を見ながら更衣室に入った。当の雪子はそんな利伸の熱視線に一切気づかず、一心不乱に縄跳びを続けた。やや強引な友永の対応を、三枝は苦笑しながら見ていた。  利伸が着替えを終えてバンテージを巻き始めた時、雪子はリング上で大森の指導を受けていた。利伸はリング上が気になって仕方ない様だが、何故か友永が近くに立って視線を遮ってしまって見えない。その内に大森の指導が終わり、雪子はリングを降りて腹筋を始めてしまった。溜息を吐く利伸に、三枝が近づいて訊いた。 「利伸、調子どうだ?」 「え? ああ、まぁ、大丈夫です」  曖昧に答えた利伸は、バンテージを巻き終えて立ち上がり、腹筋台を気にしながらウォーミングアップを始めた。やはり近くに友永が立っている。三枝は利伸に気づかれない様に、友永に向かって軽く頭を下げた。  三枝が自分のパンチングミットを用意して身体を動かしていると、女子更衣室から出て来た雪子が大森に挨拶し、次いで三枝にも挨拶に来た。 「ありがとうございました、失礼します」 「はい、お疲れさん」  三枝が応じると、雪子は軽く会釈してジムを出て行った。その後ろ姿を見送った三枝が縄跳び中の利伸に視線を移すと、やはりその顔は出入口へ向けられて、ロープは止まっていた。三枝は苦笑しながら注意した。 「利伸! まだラウンド終わってないぞ」 「あ、はい」  利伸は慌てて頷き、再びロープを回した。
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