4人が本棚に入れています
本棚に追加
番外編 恋(4)
利伸が縄跳びを終えた所で、三枝が声をかけた。
「よし、じゃあ上がって。ニラウンズシャドーしてからミットな」
「あ、はい」
いつもの調子で返事すると、利伸は首に掛けたタオルで顔の汗を拭いながらロープを片付けた。その様子を見つつ、三枝は友永に指示した。
「祐次、縄跳びしたらサンドバッグ三ラウンズな」
「ウッス」
頷いた友永は、バンテージを硬く巻いた両拳を打ち合わせて気合を入れた。
利伸のパンチは、いつも通りの威力だった。さすがに目当ての女性が近くに居なければ集中力は戻って当然だ。三枝はそろそろ次のパンチを教えようかと思い巡らせながらミットを構えていた。
利伸と入れ替わりに、サンドバッグを打ち終えた友永がリングに上がった。汗を拭く三枝に「ちょっと待った」と告げると、友永はリング下でパンチンググローブを外す利伸を呼び止めた。
「おい利伸」
「はい?」
振り返った利伸に、友永は屈み込んで尋ねた。
「オマエさ、この後時間あるか?」
「あ、はい。あります」
利伸の返事を聞いた友永は、少し口角を上げた。
「んじゃちょっとメシ付き合えよ。イバも一緒だ」
「あ、はい。いいですよ」
「OK」
利伸の約束を取り付けた友永は、改めて三枝に向き直った。
「じゃあ行きますか、ノボさん」
「おっしゃ」
三枝が応じた直後に、ラウンド開始のベルが鳴った。
練習時間が終わり、掃除も済ませた所で友永が三枝に耳打ちした。
「じゃノボさん、この後じっくり利伸の話聞いて来ますから」
「悪いな祐次、頼むぞ」
「ウッス」
友永は力強く頷いて、出入口で待つ利伸と井端に合流してジムを後にした。見送った三枝に、大森が話しかけた。
「ユージの恋愛相談か、大丈夫かあいつで?」
「どうでしょう、まぁ、俺なんかよりは向いてるんじゃないですか? 年齢も近いし」
「どっちかって言うとバターのほうが合ってそうだよなぁ」
「一緒に行ってるから、心配ないでしょう」
笑顔で返すと、三枝は手にしていたモップを片付けた。
翌日、大森が『日本ボクシング協会』へ出かけた為に、ジムには三枝だけだった。非常勤コーチの越中が来るのは午後十九時以降である。
午後十六時過ぎに姿を現した雪子に、三枝はウォーミングアップ後の縄跳びを指示して他の練習生のサンドバッグ打ちを見ていた。やがて着替えを終えて更衣室から出て来た雪子がバンテージを巻き始めると、そこに利伸が入って来た。
「チワース」
挨拶の声が若干堅めに聞こえたのが気になって、三枝が出入口へ目を転じると、声の主はえらく深刻そうな顔で雪子の方を見ている。恐らく、昨夜友永と井端に何かアドバイスを受けたのだろう、昨日までの浮足立った様子は感じられない。三枝は立ち位置を変えて、利伸の視界に入らない様に務めながら観察した。
生唾を飲み込んだ利伸は、しっかりした足取りで雪子に近づき、声をかけた。
「あ、あの、すみません」
雪子が顔を上げ、高校の制服姿の利伸を頭から爪先まで見下ろしてから尋ねた。
「何?」
利伸は口を開きかけて金魚の様にパクパクさせ、一度深呼吸して改めて口を開いた。
「あの、突然で申し訳ないのですが、その」
あまりにも丁寧な利伸の言葉に吹き出しそうになりながら、三枝は事の成り行きを見守った。
雪子がバンテージを巻く手を止めて待っている中、利伸はこめかみに一筋の汗を垂らしながら震える声で告げた。
「ぼ、僕と、お付き合いして頂けないでしょうか?」
直球勝負。
友永がけしかけたのだろうと、三枝は見当をつけた。多分井端なら、いきなり告白なんてさせない筈だ。せっかちな友永でなければ、出て来ないアドバイスだろう。
数秒の沈黙を経て、雪子が困惑しつつ答えた。
「ごめんなさいね。私、芸能界でちゃんとやれる様になるまで、誰とも付き合う気は無いの。それと君、高校生よね? 年下はちょっと……本当にごめんなさいね」
ふられた。
利伸は絶句し、三枝はだらしなく口を開けた。
正面からぶつかって、綺麗に玉と散った訳だ。
暫く目を泳がせていた利伸だったが、ひとつ溜息を吐くと、雪子に向かって深々と頭を下げた。
「突然、失礼しました」
「いえ、でも、ありがとう」
気遣う様な雪子の返事にかぶりを振ると、利伸はもう一度頭を下げてからジムを出て行った。三枝は一瞬出て行きかけたが、思い直して足を止めた。
友永達のアドバイスもあったのだろうが、利伸が己の勇気を振り絞って告白し、得た結果だ。後から他人がどうこう言う筋合いは無い。
ラウンド終了のベルが鳴って、漸く三枝はサンドバッグから離れて雪子に近づいた。再びバンテージを巻き始めた雪子の表情は、やや暗く感じた。
「安富、さん」
三枝の声に、雪子は手を止めて顔を上げた。
「三枝さん……私、悪い事しちゃったみたい」
申し訳無さそうに言う雪子に、三枝は微笑して応えた。
「いやぁ、変に濁されるよりいいでしょ。あれだけキチンとストレートに理由を言われれば誰だって諦めつくよ」
「そうですかね……」
それでも冴えない顔を見せる雪子に、三枝はわざと声のトーンを少し上げて言った。
「さぁ、早くバンテージ巻いて! 今日は会長が出先だから、俺が代わりにミットやるよ」
雪子は一度視線を自分の拳に移してから、また三枝を見上げて応えた。
「はい。お願いします」
最初のコメントを投稿しよう!