基本編 左アッパー(1)

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基本編 左アッパー(1)

 翌日、ジムに姿を現した利伸を見て、三枝は安堵の溜息を吐いた。ハッキリした結果だったとは言え、利伸は少なからずショックを受けた筈だ。下手をしたら一週間かそれ以上ジムに来ない可能性も考えていたのだ。 「チワーッス」  事務室に顔を出していつも通りに挨拶する利伸に対して、何故か三枝の方がぎこちなくなる。 「お、おぅ」  そこへ、テレビを観ながら茶を啜っていた大森が言った。 「変わりなさそうじゃないか、ヒョロは」 「あ、そうですね、安心しましたよ」 「心は打たれ強そうだな」  大森の返しに微笑で応えると、三枝は椅子から立ち上がってジム内を眺めた。利伸を振った安富雪子は、ジムワークを終えて補強運動を行っていた。利伸を気にしている様子は全く無い。  事務室から出ようとして、三枝はふと何かを思い出した様に足を止めて振り返った。 「そう言えば会長、井端の試合はいつになりそうなんですか?」  三枝の問いに、大森は茶を飲み干して湯呑みをデスクに置いてから答えた。 「あー、それな。あっちが返事を保留しててなぁ。早く決めてくれってんだよなぁ」 「焦らしてんですかね?」 「意味無いだろ」  互いに苦笑して、ふたりはそれそれ事務室を出て練習生の指導に入った。  三枝は、リング上で練習生のミット打ちをしながら、着替えを終えて準備運動を始めた利伸の様子を窺っていた。その利伸の近くを、雪子が通りかかった。 「こんにちは」 「あ、こんちは」  雪子の挨拶に、利伸が平静な様子で挨拶を返しているのを見て、三枝は再び安堵した。どうやらふたりの間に妙なわだかまりは発生していないらしい。  六ラウンズ経過し、利伸が縄跳びとシャドーを終えたのを見計らって、三枝が呼びかけた。 「おい利伸、グローブ着けて上がれ」 「あ、はい」  小さく頷き、利伸は窓際から自分のパンチンググローブを取って両拳に嵌めながらリングロープをくぐった。  ラウンド開始のベルが鳴ると、まず三枝は利伸に右アッパーを打つ様に指示した。頷いた利伸が、下向きに構えられたパンチングミットめがけて鋭く右腕を振り上げた。乾いた音と共に、ミットを嵌めた三枝の腕が少し跳ね上がる。  感触を確かめる様に何発か右アッパーを打たせた後、三枝は右アッパーを交えたコンビネーションをいくつか打たせてこのラウンドを終えた。  コーナーに下がって額の汗を拭う利伸に、三枝が告げた。 「よし、じゃあ今日から左アッパーやろう」 「え? あ、はい」  若干戸惑いつつ、利伸は頷いてグローブを外した。  次のラウンドに入り、三枝は鏡に向かってファイティングポーズを取りながら説明を始めた。 「左アッパーも、基本的な打ち方は右と一緒だ。ただオーソドックスだと左手は前に出てるから、そのままじゃ打ち辛いだろ」 「あ、はい」  利伸の反応を見てから、三枝は説明を続ける。 「だから、左アッパーの時は一旦左腕を引く、と言うか、上半身ごと引く。こんな風に」  そう言うと、三枝は左腕と左脚をを前にしたオーソドックススタイルから、左肩を引いて上半身だけサウスポーに近い向きに変えた。その動きを、利伸が真似る。 「この状態から、腕を直角に曲げて打ち上げる」  三枝が左アッパーを打つと、利伸も倣ってアッパーを打ち、直後に数度頷く。 「な? 打ち方そのものは右と一緒だろ?」 「あ、はい」 「注意しなきゃいけないのは、どうしてもガードが空いちまうから、できるだけ振りを速くするって事。判るか?」 「あ、はい」 「よし、んじゃ、やってみな」  三枝の指示に従い、利伸は何度も左アッパーを繰り返した。だが腕を速く振る事を意識し過ぎているのか、打ち上げる角度が一定しない。 「軌道が乱れてるぞ! まずはキチンと真っ直ぐ打て」 「あ、はい」  三枝が注意し、利伸は息を整えてから少しハンドスピードを落として丁寧にアッパーを打ち始めた。次第に軌道が安定して来る。 「その調子だ。徐々にスピード上げて行け」 「あ、はい」  利伸の左アッパーが、次第に鋭さを増していった。  二ラウンズが過ぎた頃、ジムに電話の音が鳴り響いた。反応しかけた三枝を手で制して、大森が小走りに事務室に入って電話に出た。三枝は事務室を一瞥して、再び利伸の左アッパーに目を転じた。  三ラウンズを消化して、利伸はリングを降りた。三枝も続いてロープをくぐり、事務室に入って大森に尋ねた。 「電話、何処からだったんですか?」  大森は何やらメモに書きつけていたが、ペンを置いて振り返った。 「あぁ、サンライズジムだよ。やっと折り合いがついたよ」 「て事は」 「ああ。バターの試合、決まりだ」
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