基本編 左アッパー(2)

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基本編 左アッパー(2)

 夜二十時過ぎになり、帰り支度を済ませた利伸が更衣室から出た時に、井端がジムに現れた。 「オイッス〜」  その声を聞いた三枝が椅子から立ち上がり、事務室を出て井端に声をかけた。 「おい井端、ちょっと来い」 「はい?」  戸惑いながら三枝の後について来た井端に、大森が椅子に座ったまま告げた。 「おぅバター、待たせたな。試合決まったぞ」 「え? マジッスか?」  井端が瞠目して大森を見返す。その横から、少し渋い顔で三枝が補足した。 「ただな、日取りがちょっとタイトなんだよ」 「タイトって、いつッスか?」  目の大きさを変えずに三枝を見て訊く井端に、大森が自筆のメモを見ながら言った。 「来月末。つまりひと月ちょっとしか時間が無いんだよ」 「えぇ、そりゃキツいッスね」  井端も渋い表情で応える。その後ろから、不思議そうな顔で利伸が顔を覗かせる。 「あ、どうかしたんですか?」  振り返った井端は咄嗟に笑顔を作って返す。 「あ、おぉ利伸! 聞いてくれよ遂に俺の試合が決まったんだよ!」 「え、あ、そうなんですか。それは良かったですね」  驚いた様子で答える利伸の肩を叩いて、井端が更に言った。 「おお! 当日は絶対見に来てくれよな!」 「あ、はい。じゃ、失礼します」 「おー、お疲れ」  小さく会釈して事務室を離れた利伸を見送ってから、井端は大森に向き直って告げた。 「いいスよ。俺、試合します!」 「大丈夫か?」  三枝が心配そうに尋ねると、井端は笑顔で返した。 「何とかなりますよ! 俺だって利伸にいいとこ見せたいし。仕事の方は、店長に頼んで減らしてもらいますよ」 「そうか、まぁこの期間じゃ合宿もできんからなぁ。ジムで相当追い込む事になるぞ」  三枝が釘を刺す様に言うと、井端は口を真一文字に結んで頷いた。  気合充分の井端が更衣室へ入った直後、友永が入って来た。 「ウーッス」 「おぅ祐次、来たか」  三枝は事務室を出て友永に歩み寄り、小声で告げた。 「井端の試合、やっと決まったよ」 「あ、そうスか! そいつぁ良かった」  自分の事の様に喜ぶ友永に、三枝は軽く溜息を吐いてから返した。 「それが、試合までひと月ちょっとしかないんだよ。本人はやるって言ったけども、どうかな」 「アイツもう来てます?」  友永の問いに、三枝は無言で頷く。友永も黙って二、三度頷くと、数秒思案してから口を開いた。 「いいんじゃないスか? アイツがやるっつってんなら。今度は俺が全力でサポートしますよ。今までスパーで散々ブッ叩いたから」  その言葉に、三枝は思わず吹き出した。 「そうだな、今度はお前がブッ叩かれる番だ」  微笑して更衣室へ向かおうとした友永が、足を止めて再び三枝を振り返った。 「あ、そう言やさっきそこで利伸に会いましたよ」 「ああそう」 「今日から左アッパー始めたらしいじゃないスか」 「あー、どうやら失恋のダメージも癒えたらしいからな」  笑顔で言う三枝に、友永も笑顔で返す。 「気持ちいいくらいの玉砕だったそうッスね。でも後腐れなくていいでしょその方が」 「どうせ焚きつけたのお前だろ? 直球勝負なんて、井端の奴からは絶対出ない意見だ」  三枝の指摘にサムズアップで答えて、友永は更衣室へ入った。
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