基本編 左アッパー(5)

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基本編 左アッパー(5)

 ジムが賑わう午後二十時過ぎ、リングの上には井端と友永が立っていた。ふたりともヘッドギアで頭を保護し、両拳を十四オンスのボクシンググローブで覆っている。 「よぉし、始めるぞ」  三枝が、ニュートラルコーナーから声をかけ、ふたりは無言で頷く。三枝の隣には、既に着換えを済ませた制服姿の利伸が居る。  ラウンド開始のベルが鳴ると同時に、ふたりは互いの左拳を軽く合わせた。直後に、井端の左ジャブが二発続けて放たれる。だが友永はそれが牽制だと見抜いていて、全く動かない。井端は構わずにもう一発ジャブを出し、踏み込んで右ストレートを強振した。左拳でブロックした友永が右ロングフックを返す。スウェーイングで空振りさせると、井端が再びジャブを打つ。友永が反撃の素振りを見せると、右へサイドステップして間合いを外す。相手の利き腕の反対側へ回る、セオリー通りの動きだ。 「いいぞ井端、慌てるな」 「ウス」  小さく返事した井端は、尚も右へ回りつつジャブを連打する。友永も左ジャブで追うが、パアーリングでいなされてしまう。 「チッ」  舌打ちした友永が、強引に右オーバーハンドで襲いかかる。井端は後ろに下がってかわそうとするが、間に合わずに左肩の辺りに被弾する。その威力に、左腕が若干痺れる。 「油断するな!」  三枝の叱責が飛ぶ。気を取り直して、井端がフリッカー気味のジャブから右ボディストレートを出す。僅かに届かないが、そこから思い切り身体を捻って左アッパーを突き上げた。拳が友永の顎を掠める。 「おっ」  三枝の隣で、利伸が声を上げた。  更に右ストレートへ繋ぐ井端だったが、友永が恐ろしい程の反射神経でヘッドスリップし、空を切らせる。 「よくかわせるなぁ」  またしても利伸が言葉を漏らした。三枝が微笑混じりに言う。 「あいつはほぼ野生の勘で避けてるからな」  そこから友永が、下から振り回す様に左フックを打った。井端は慌ててガードを上げるが、勢いに負けてよろめいてしまう。友永は井端の体勢が崩れたのを見逃さず、ボディに右、左と連続で拳を叩きつける。まともに食らった井端は、ヘッドギアの奥で顔を歪めながらロープ際まで後退した。 「真っ直ぐ下がるな! 回れ!」  三枝が声を荒らげる。井端はロープの反動を使って友永の追撃をかわし、距離を取って向き直る。 「どうしたイバ? まさかビビってんのか?」  友永が挑発するかの様に訊く。井端は小さく息を吐いてからファイティングポーズを取り直して答える。 「んな訳無いでしょ」 「そう来なくちゃな」  不敵な笑みを浮かべた友永が、大きく踏み込んでいきなり右拳を振った。それを右脚を下げて半身になってかわした井端が、ボディへ右拳を吸い込ませた。 「グッ」  カウンター気味に決まり、友永の口から呻き声が漏れる。返す刀で左フックを打ち下ろすが、友永はわざと頭を右へ傾けてぶつけに行った。中途半端にかわさず、当たりに行く事で威力を削いだのだ。 「つっ」  思わぬ反撃に、井端は左拳を引きつつサイドステップした。 「今の、わざとですか?」  利伸の問いに、三枝が頷く。 「ああ。あれがやれるのが祐次の凄い所だ。普通、パンチを頭で迎え撃つなんて発想は出ないからな」  それ以降、井端は左ジャブを多用してリング内をサークリングし、友永がそれを追う展開に終始し、第一ラウンドが終わった。ふたりはそれぞれコーナーへ戻り、水分補給を行う。井端の方に歩み寄った三枝が発破をかける。 「ちょっと消極的だな。もっとジャブ溜めて焦らせよ」 「ウッス」  小さく頷き、井端はコーナーポストに掛けたタオルをすくい上げ、乱雑に顎の下の汗を拭った。 「さぁ、こっからだ」  独りごちた井端が顔を上げたと同時に、ラウンド開始のベルが鳴った。ふたりは同時にコーナーから離れ、三枝と利伸が見上げる前で拳を交錯させた。  結局、二ラウンド目も似た様な展開に終始して終えた。大きく息を吐きながらリングを降りた井端に三枝が言った。 「通常なら良いかも知れんが、今回は試合まであんまり日数無いんだから、もっとペース上げて行かないと間に合わんぞ」 「ウッス」  力無く頷く井端の後ろに利伸が回り、ヘッドギアの紐を解いた。グローブは三枝が外す。 「おう、悪いな利伸」 「いえ」  井端が礼を述べて利伸が答える間に、ヘッドギアを外した友永が寄って来た。 「イバ、ジャブが荒い」 「ウッス、すみません」  友永の厳しい指摘に、井端はただ謝るのみだった。外したグローブを脇に抱えて、三枝が告げた。 「とにかくだ、時間が限られてるから厳しめに行くぞ。気を引き締めてやれよ」 「ウッス。ありがとうございました」  ヘッドギアを取って頭を下げた井端が、タオルで顔を拭きながらトイレに入った。その後ろ姿を見送った利伸が、三枝を振り返って言った。 「じゃ、帰ります」 「おぉ、気をつけてな」  三枝が返すと、利伸は「あ、はい」と返事して会釈し、出入口へ向かった。
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