番外編 二度目のリングサイド(2)

1/1
前へ
/88ページ
次へ

番外編 二度目のリングサイド(2)

 三枝達が青コーナー側の控室に入ると、井端より前の試合に出場する選手とそのセコンド陣が慌ただしく動き回っていた。その奥では、メインイベントで日本バンタム級タイトルに挑戦するランキング三位の山口陽一郎選手がセコンド陣と談笑していた。 「井端、着替えたらすぐアップだぞ」  三枝の指示に頷き、井端がスポーツバッグを近くのベンチに下ろす。その傍らでは越中がやはり持参したスポーツバッグを開けてリングサイドに持ち込む物をチェックしていた。三枝も自分のパンチングミットを取り出して準備を始める。すると、着替えを終えた井端が三枝に告げた。 「ちょっとトイレ行って来ます」  背中を丸めて控室を出る井端を見送った三枝に、大森が話しかけた。 「バターの奴、やっぱり緊張してんのかね」 「そりゃそうでしょう、何せ一年以上試合してないんですから」  三枝が笑顔で答えると、場内に興行の開始を告げるリングアナウンサーの声が響いた。 「はい、ジャブから右クロス!」  三枝の指示で、井端がミットに向けてパンチを放つ。小気味良い音が、控室内に反響する。  第一試合の四回戦がフルラウンドまでもつれ込み、第ニ試合はまだ始まったばかりだった。 「バター、ジャブが遅い。肩の力抜け」 「ウッス」  大森の注意に頷く井端だが、その表情は硬い。そこへ、会場スタッフが井端達を呼びに来た。 「井端選手、準備お願いします」 「はい」  代わりに答えた三枝が、井端の肩を軽く叩いて激励した。 「リラックス! お前は祐次とスパーしてんだから、もっと自信持て」 「あ、ウッス」  井端は小さく頷き、傍らのタオルを拾い上げて顔の汗を拭った。 「よし、行こう」  大森の号令で、三枝達は控室を出た。入れ替わりに、先の試合で勝利した選手とセコンド陣が、意気揚々と引き上げてきた。その様子を見た三枝は、彼らの良い雰囲気が井端に好影響になれば良いと思った。その井端は、先頭に立つ大森の両肩に手を乗せて、俯いて頻りに足を動かしている。 「青コーナーより、井端邦博選手の入場です!」  リングアナウンサーのコールの直後、大森の合図で一斉にリングへ歩を進めた。井端の後ろに越中が付き、三枝は用具を提げて殿をつとめた。  青コーナーのポスト下で足を止めた大森が、井端に向き直って言った。 「落ち着いて行けよ」 「ウッス」  頷いた井端に、三枝が手を伸ばして水のボトルを差し出す。口に水を含んだ井端が足元の松ヤニに少量の水を吹きかけ、その上からシューズの底を擦りつけて滑り止めを施す。タラップの前にしゃがみ込んで両拳に顔を埋めて数秒集中し、顔を上げるなり「ヨッシャア!」と気合いを発してエプロンサイドに駆け上がり、越中が開けたロープの間をくぐってリングインした。 「赤コーナーより、ジェンキンス勝利選手の入場です!」  次いで、対角線上に色白で筋肉質の長身が現れた。途端に、観客席の一角から黄色い歓声が上がる。日本人離れしたルックスが女性に受けているのだ。同性の三枝が見ても、その容貌は格好良く見えた。そこへ観客席から友永が声を飛ばした。 「イバ! ボクシングは顔じゃねぇぞ!」  ポストの方を向いて俯いていた井端が急に顔を上げて客席を見た。つられて三枝も客席を振り返る。友永は井端に向かって笑顔で右拳を突き出していた。その隣では、利伸が真顔でリング上を見つめている。  井端も右拳を突き出して、力強く頷いた。三枝は笑顔で井端に訊いた。 「どうだ、気合い入ったか?」 「オス!」  腹からの声で答えた井端が、リングアナウンサーのコールに応じて右手を挙げた。観客席から拍手が贈られる。だがジェンキンスがコールされると、先程よりも大きな女性客の歓声が上がった。 「うるせぇな」  小声で毒づく井端を、三枝が宥める。 「気にするな。集中しろ」 「ウッス」  不満げな顔で頷いた井端が、越中と共にリング中央へ進み出てジェンキンスと対峙した。百八十七センチメートルのジェンキンスが、自信満々な表情で井端を見下ろし、井端も負けじと見返す。レフェリーの注意が終わると、井端とジェンキンスが拳を合わせてそれぞれのコーナーに戻った。三枝はエプロンサイドから井端に指示した。 「いいか、まずはジャブを丁寧に。向こうが出て来ても慌てるなよ」 「ウッス」  井端が頷くと同時に、第一ラウンド開始のゴングが鳴った。
/88ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加