基本編 パーリング(3)

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基本編 パーリング(3)

互いにグローブを着け終えた友永と井端が、ラウンド開始のベルと共に対角線上のコーナーからリング中央へ進み出た。三枝はエプロンサイドに両手を突いてふたりを見上げた。その傍らで、利伸が大量の汗をタオルで拭いながらリング上を凝視している。 友永は井端と軽く左拳を合わせてから告げた。 「イバ、今回は俺もお前もストレート多めでな」 「ウッス」 頷いた井端が、挨拶代わりに左ジャブを振る。先程見本を見せた時と異なり、本来のデトロイト・スタイルから放つフリッカー気味のジャブだ。友永は反応せずにドッシリと構える。 井端が一歩踏み込み、ワンツーを打った。友永は左拳は無視して右ストレートだけを内側へパーリングした。井端は払われた右腕を素早く引いて左へサイドステップし、左ストレートを顔面へ伸ばす。一歩後退した友永がいきなり右ストレートを強振、だが井端の左掌で払われる。下から三枝が声をかける。 「いいぞ、マスだからって緩めるなよ」 「判ってらぁ」 即座に間合いを詰めた友永が左右のストレートを連打する。さすがに全てをパーリングできず、井端はロープ伝いに右へ回ってパンチを外す。三枝が利伸の方に首を傾けて言う。 「パーリングとかに拘る必要は無いぞ、パンチを貰わないに越した事は無いんだからな」 「あ、はい」 頷く利伸の視界で、ふたりのプロボクサーが目まぐるしく動いてパンチを交錯させていた。 あっという間に三分が過ぎて、友永と井端はグローブを合わせてリングを降りた。 「お疲れ」 三枝が労うと、友永は微笑で応えてグローブを外し、利伸に話しかけた。 「観て判ったと思うけど、やっぱパンチは貰わない方が全然いいから、イバみたいに足使って距離取るのが一番なんだよな」 「それさっき俺が言ったよ」 三枝が突っ込むと、友永は「何だよ」と軽く悪態を吐いてから続けた。 「でもよ、上手くパーリングできりゃ相手の体勢崩せるから、覚えて全然損は無いぜ」 「カウンターも取れるし」 井端が横から口を挟むが、友永に「お前そんなに上手くねぇだろ」と言われて口をへの字に曲げてしまう。 「まぁまぁ、とにかくふたりともありがとうな」 三枝が笑顔で告げると、横で利伸も丁寧に頭を下げた。 「ありがとうございました」 「いいって事よ」 口角を吊り上げてサムズアップした友永は、外したグローブをぶら下げて越中の方へ歩み寄った。井端も微笑を返してその場を離れる。ふたりを見送った三枝が、利伸に訊く。 「どうだ? 勉強になったか?」 「あ、はい」 頷いた利伸に、三枝は腹筋をして上がる様に指示して事務室に引き上げた。それまで茶を飲みながらテレビを観ていた大森が、振り返って三枝に告げた。 「あぁ、再来月にオックン試合決まったから」 「え、奥井ですか?」 オックンこと奥井とは、昨年春にプロデビューしたばかりの四回戦の選手である。奥井は大学でキックボクシング部に入っていて、アマチュアの大会にも出た事があるが、卒業と同時にボクシング転向を決意し、『大森ボクシングジム』に入門した変わり種である。 ボクシングとキックボクシングは似て非なる競技なので、当初はその違いに苦しんだ奥井だが、三年近くをかけて漸くプロテストに合格した。現在は主に昼間練習し、夕方から夜にかけてコンビニエンスストアでアルバイトをしている。デビュー戦はフルラウンド戦って辛うじて二対一のスプリット・デジジョンで勝利している。 「そうですか、それで相手は?」 三枝の問いに、大森は茶を啜ってから答えた。 「西部ジムの若手で、あちらも二戦目だそうだ。ただ年齢が十九だと」 「ああ、若いですね」 三枝が、困った様な笑顔を見せた。現在二十七歳の奥井とは、八年も歳の差が開いている。三枝は空いた椅子に座ると、デスクの上に置いた自分の湯呑みを引き寄せ、側の急須を持ち上げてから言った。 「でも、奥井もキックとは言えアマチュアの経験もありますし、そこまで遅れは取らんでしょう」 「そうだな」 同意した大森が、中身を飲み干した自分の湯呑みを三枝に向けて差し出した。一瞬動きを止めて湯呑みを凝視してから、三枝は苦笑して湯呑みに茶を注いだ。そこへ、着替えを終えた利伸が顔を覗かせた。 「ありがとうございました、失礼します」 「おおヒョロ、お疲れ」 「またな」 大森に続いて三枝が返すと、利伸は「あ、はい」と返事して頭を下げ、ジムから出た。その背中を見送った三枝が、ふと思い出した様に言った。 「利伸も、言ってみれば別の競技からの転向組ですね」 今度は大森が一瞬動きを止めたが、すぐに大きく口を開けて数度頷いた。 「あ~そうか、ヒョロは元々バスケ部だったな」 「ええ、今じやすっかりボクシングが板に付いてきましたがね」 「あいつはなかなか筋がいいよ。世界も狙える逸材かもな」 利伸を持ち上げる様な大森の発言に、三枝は笑顔で返す。 「会長、まだプロテストどころかロクにスパーリングもしてませんよあいつは」 「そりゃそうだけど、何かそんな気がするんだよなぁ」 しみじみと言う大森に、三枝は数度頷いて呟いた。 「そうですね。そうなってくれたら、いいですね」
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