番外編 寝返った男

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番外編 寝返った男

三枝と大森がジムを開けて十分も経たない内に、出入口から男の声が聞こえた。 「しゃ~っす」 その緩めの挨拶に反応した三枝が、微笑混じりに大森に言った。 「来ましたよ」 「おぅ」 頷いた大森が、手にしていた湯呑みをデスクに置いて事務室を出た。その後ろ姿を見送ってから、三枝も腰掛けていた椅子から立ち上がった。その耳に、入って来た男と大森の会話が伝わる。 「よぉオックン。聞いて驚くなよ」 「あ~会長、おはようございますぅ、何ですか急にぃ?」 「試合決まったぞ、八月だ」 「え? あ、あ、マジッスか? あ、いやぁそりゃ驚きますよぉ~」 東北出身らしい独特のイントネーションでの受け答えに、三枝は笑いを噛み殺した。 大森が呼びかけた通り、入って来たこの男こそ『大森ボクシングジム』のプロボクサーのひとり、奥井忠良である。 三枝が大森の後ろから顔を出すと、奥井は鳩の様に忙しなく首を動かして会釈した。 「あ、三枝先生、おはようございますぅ」 「おぅ、良かったな奥井、試合決まって」 入門当初からずっと、何故か奥井は三枝を『先生』と呼ぶ。未だに抜けないむず痒さを覚えつつ、三枝は奥井を労った。奥井はわざとらしく頭を掻きながら返す。 「いやぁ~、えらい久しぶりなんでぇ、なぁんか今から緊張しちゃいますねぇ~」 「何言ってんだよオックン、今からそんな緊張してたら試合当日くたばっちまうぞ!? シャキッとしろよ!」 大森の叱咤にまたも鳩の様な会釈をしながら、奥井は極端な猫背で三枝の脇をすり抜けて更衣室へ向かった。 「大丈夫かねあいつ」 心配そうな大森に、三枝は笑顔で返した。 「まぁ、あれで土壇場での度胸はありますから、行けるでしょう」 「だといいがな」 それきり黙って事務室に戻った大森を見送り、三枝は身体をほぐし始めた。 着替えとウォーミングアップを終えた奥井に指示を与えようとした三枝に、奥井が話しかけた。 「ねぇ先生」 「ん?」 「あの、最近先生や会長が目をかけてる若い子、どうですか?」 質問の内容を図りかねて一瞬戸惑った三枝だが、数秒で誰の事を指しているか察して大きく頷いた。 「ああ、利伸か」 「そうそう、その利伸君」 奥井はジムが開いた直後の午後十二時過ぎに練習を始めて、遅くても三時頃までには終わらせてコンビニエンスストアの仕事へ出向くので、高校での授業を終えてからジムに来る利伸とは今まで全く接点が無かった。その奥井が何故急に利伸の事を訊くのか、三枝は気になって訊き返した。 「利伸がどうしたんだ? お前、一度も会った事無いだろ」 「いや~、だってエッチューさんもたまに利伸君の事話すし、友永さんに気に入られてるらしいじゃないッスか~? さすがに興味湧きますよぉ」 元々下がっている目尻を更に下げ、人懐っこい笑顔で話す奥井につられて、三枝も笑みを漏らす。 「そうだな。最近ディフェンス教え始めたけど、やっぱりセンスあるよ。目も良いし」 三枝の評価を聞いた奥井が、目を細めて言った。 「会ってみたいなぁ~、利伸君」 それから三枝は、奥井に三ラウンズの縄跳びと五ラウンズのシャドーボクシングを命じた。試合が決まったとは言え、まだ二ヶ月近く間があるので今日は通常の練習の延長だ。三枝は他の練習生の指導をしながら、奥井の動きをチェックした。 身長百六十二センチと小柄の奥井は、猫背の上半身から放り投げる様なストレートと、思い切りの良いフックを振るっている。前後のステップは速く、前進しながら小刻みに打つアッパーにもキレがあった。試合間隔が空いている状況でも良い練習を重ねているのが、一挙手一投足から見て取れた。後から来た越中が、三枝に歩み寄って言った。 「奥井、悪くないですね」 「ああ、よく動けてるよ」 三枝は同調し、自分のパンチングミットを取りに窓際に向かった。 シャドーを終えた奥井を、三枝はリング上へ呼び込んだ。応じた奥井がパンチンググローブを抱えてロープをくぐるのを待って、三枝が告げた。 「今日から少しずつ上げて行くからな。試合にピークを合わせられる様にな」 「はい~」 微笑混じりに返事する奥井だが、ラウンド開始のベルを聞くや否や表情を引き締めてファイティングポーズを取った。三枝も頬に力を入れて指示を飛ばす。 「ジャブからボディストレート、返しの左フック入れてバックステップ、ワンツースリー」 無言で頷いた奥井の両拳が唸りを上げて三枝のミットに打ち込まれた。 四ラウンズのミット打ちを終えてリングを降りようとした三枝に、奥井が尋ねた。 「あの先生、僕今日残ってもいいっスかね~?」 「え? 別に構わんが、お前コンビニは?」 三枝が訊き返すと、奥井は何故か恐縮しながら答えた。 「あ、今日は休みなんっスよぉ~、そんでぇ、やっぱり一度利伸君に会ってみよっかなって」 三枝は少し考えたが、数回頷いて言った。 「ああ、んじゃあ来るまで事務室で休んでな。その前に腹筋やってけよ」 「わっかりましたぁ~」 嬉しそうな笑顔で頭を下げ、奥井はリングを降りた。 「人気者だな、あいつも」 独りごちつつ、三枝はミットを外した。 午後五時近くになって、利伸がジムに現れた。 「チワーッス」 アマチュア選手のシャドーを見ていた三枝は、出入口を一瞥してから小走りに事務室へ向かい、中で茶を啜りながら大森と談笑している奥井に知らせた。 「奥井、利伸が来たぞ」 「あ、そうですか? 待ってました」 喜色満面の奥井がフロアの方へ首を伸ばしたと同時に、利伸が事務室の前に来て挨拶した。 「チワーッス」 「よぉ」 「おぉヒョロ」 三枝と大森が挨拶を返した直後、奥井がいかにも嬉しそうな顔で利伸を見上げ、話しかけた。 「はじめましてぇ、君が利伸君?」 「え? あ、はい」 突如見知らぬ男から馴れ馴れしく声をかけられて戸惑う利伸に、三枝がフォローを入れる。 「おお利伸、彼は奥井。一応プロだ」 「一応って先生~、あ、あの、奥井忠良です。よろしくね」 「あ、は、はい」 小刻みに会釈する奥井に困惑を深めつつ応じる利伸の様子に、三枝は必死に笑いを堪えた。 利伸が更衣室へ行くのを見届けて指導に戻ろうとした三枝に、奥井が言った。 「先生~、彼、タッパあるね~」 「ああ、利伸は元バスケ部だからな」 三枝が答えると、奥井は目を丸くした。 「へぇ~バスケ部! そうなんだぁ、僕は球技全然ダメなんスよぉ~」 「そうなのか、あいつは団体競技向いてないんだと」 三枝が追加情報を与えると、奥井は神妙な顔になった。 「ほぉ~、だからボクシングかぁ」 「オックンも団体競技向いて無さそうだよな」 大森が口を挟むと、奥井は振り返って言った。 「ええ~、僕引っ込み思案だったから上手くチームに入れなくて」 「コミュニケーションが取れないとキツいからな」 三枝の言葉に、奥井は無言で頷いた。その内に、着替えを終えた利伸が出て来た。すると奥井が、大森と三枝に頭を下げて事務室を出て利伸に歩み寄った。三枝が見つめる中、奥井は床に座り込んでバンテージを巻き始めた利伸に訊いた。 「君さ、身長いくつ?」 「え? あ、百八十一です」 驚きつつ素直に答える利伸に、奥井は感心した様な顔で言った。 「へぇ~、羨ましいなぁ」 奥井の意図を図りかねた三枝は、近寄りかけた足を止めて様子を窺った。奥井は利伸の隣に腰を下ろして胡座をかき、更に続けた。 「僕ね、前はキックボクシングやってたのね、大学で。その時はキックでプロになろうと本気で思ってたんだ」 「あ、はい」 困惑は窺えるが、利伸は特に奥井を忌避する様子も無く話を聞いている。奥井は顎を上げて天井を見ながら言った。 「それで、どうせなら一度ムエタイ、え、ムエタイってのはタイ式ボクシングね、それの本場に行って練習してみたいと思ってさ、四年の冬休みに思い切ってタイに行ったの、僕」 「あ、そうなんですか」 目を見開いて返す利伸と同様に、三枝も目を見開いていた。ややもすると気の弱そうに見られがちなこの男にそんな行動力があった事に、正直驚いていた。奥井は遠い目をして話を続ける。 「部活の仲間と一緒に行ったんだけどさ、その時世話になったジムの会長に僕、ズバッと言われたんだよね~」 「何をですか?」 すっかり興味を持ってしまったらしい利伸が、身を乗り出して訊いた。無意識に三枝の上半身も前に傾ぐ。 「お前は脚が短いから向いてないって。いや判ってたのよ? だけどやっぱ認めたくないじゃんか? それに努力で何とかなるんじゃないかってあの頃は本気で思ってたし。それをさ~、あんな風にハッキリ言われちゃったらもう、すっかり情熱が醒めちゃって、結局僕だけ一日も練習しないで帰国したよ」 「そうなんですか」 深刻そうに頷く利伸と殆ど同じ表情をしながら、三枝は奥井をまじまじと見た。 高い志を持っていた男が、夢の実現の手前で受けた屈辱はどれほどの物だったろうか? 三枝には想像できなかった。 溜息を吐いてから、奥井が続ける。 「それから暫くはさ、ショックでかくて何にも手につかなかったんだけどさ、ある日たまたまテレビで観たボクシングの試合でさ、名前とか忘れちゃったんだけど僕くらいの小柄な選手が豪快にKO勝ちしてるのを観て、ああ、脚が短くてもパンチがあるって思い直して、それでボクシングやろうって思ったんだよね」 他人事なのに、三枝は何故か嬉しくなった。挫折を経験したひとりの男を、ボクシングが救った事にある種の感動すら覚えていた。 話し終えて満足そうな奥井が、バンテージを巻き終えた利伸に右手を差し出して言った。 「という訳で、お互い頑張ろうね」 一瞬の間を置いて、利伸が己の右手を重ねた。 「あ、はい」 ふたりの握手を、三枝は眩しそうに見つめた。
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