基本編 スウェーイング(1)

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基本編 スウェーイング(1)

 昼下がりの『大森ボクシングジム』のリング上では、試合を控えて練習の強度を上げ始めた奥井が越中とミット打ちを行っていた。三枝はエプロンサイドに両手を着いて指示を飛ばす。 「ホラァもっとパンチ速く!」 「はいぃー!」  気合いが乗りつつも何処か間延びした返事をしながら、奥井は越中の要求に応えて小気味良くパンチをミットへ打ち込む。その全身は汗に濡れそぼち、足元には軽く水溜まりができていた。 「おっし、今日はここまで! んじゃ次フィジカルな」 「オッス〜」  両手を膝に着いてうなだれながら返事した奥井がロープを潜った所で三枝が声をかけた。 「奥井、調子上がって来てるじゃないか」 「あ、先生〜、あざっすぅ〜」  顔の汗を拭いながら何度も頭を下げる奥井を見送った三枝が事務室へ足を向けかけた時に、奥井が問いかけた。 「時に先生、あの利伸君って今ディフェンスやってんでしたっけ?」 「え? ああ、まだパーリングだけだがな」  三枝が振り向いて答えると、奥井は両手を覆うパンチンググローブを外しながら更に訊く。 「彼は、階級どの辺なんですかね?」  そう言われて、三枝は利伸の通常時の体重について思いを巡らせた。確か六十キロは無い筈だ。 「そうだな、元々そんなにウェイトがある方じゃないみたいだから、普通に考えたらちょっと絞ってスーパーバンタムか、フェザーって所だろ」  三枝の返答に二、三度頷いた奥井が、壁際の棚に置いたタオルを拾い上げて頭を乱暴に拭いてから言った。 「だったら、同じ階級じゃデカい方ですよね〜?」 「だろうな」 「なら、スウェーとか教えた方がよくないですかぁ?」  奥井の提案に、三枝は思案顔で返した。 「いや、俺もそう思うんだけどな、スウェーを先に覚えちゃうと余計にパンチを怖がっちまうんじゃないかって気もしてな」 「いや〜大丈夫でしょ彼なら。僕みたいにちっちゃくてリーチも短い奴は変にスウェー覚えてもビビっちゃって上手く使えないッスけど、彼くらいタッパもリーチもあったら問題無いでしょ。あ〜、羨ましいなぁ」  呑気に喋る奥井に、越中の「早くしろよ」と言う声が浴びせられた。奥井は越中の方を向いて頭を下げると、三枝に向き直って丁寧に会釈した。 「じゃ、すいませ〜ん」  小走りに離れる奥井の後ろ姿を見送りながら、三枝は今後の利伸の練習プランを考え始めた。  夕方に姿を現した利伸が更衣室へ行っている間、三枝は事務室で大森と話していた。 「へぇ、オックンがね」 「ええ、まさかあいつに助言されるとは思いませんでしたよ」  三枝が苦笑いしながらデスクの上の湯呑みに手を伸ばすと、大森がその側に置いた煎餅の袋をひとつ取り上げて言った。 「まぁでも、ヒョロはあの感じじゃフェザーより上ってのは考えにくいから、間違っちゃいねぇよな」  三枝は茶をひと口啜ってから答えた。 「ええ、ですから今日からやらせてみようと思ってるんですが、ただ」 「ただ、何だ?」  訝しげな顔で訊く大森に、三枝は湯呑みを置いて答える。 「やっぱり、変にパンチを怖がる様にならないか、と思いまして」  返答を聞いた大森は、袋を開けて煎餅を取り出しつつ考え込む様な顔をしたが、おもむろにひと口齧ると音を立てて咀嚼しながら言った。 「心配ないだろ。並の奴ならともかく、ヒョロは異常に目が良いからダッキングやウィービングよりそっちの方が合ってるよ」 「そうですかね」  三枝が曖昧に同意した時、着替えを終えた利伸が事務室の前を通り過ぎてウォームアップを始めた。  友永も練習を始めて活気が出て来たジム内で、三枝はシャドーボクシングを三ラウンズ済ませた利伸をリングに呼んだ。  それまでミット打ちをしていたアマチュア選手と入れ替わりに、パンチンググローブを嵌めた利伸がロープを潜った。 「よし、じゃあまずはパーリングからのワンツー」 「あ、はい」  ラウンド開始のベルと同時に、三枝がミットを嵌めた両手でパンチを出し、利伸が左右のパーリングで払ってワンツーパンチを打つ。次第にパンチのバリエーションを増やしながら、二ラウンズに渡ってパーリングの練習を行った。  利伸のパーリングは当初から比べて余分な力も抜けて、適切な加減でパンチを捌いていた。  二ラウンド目が終わった所で、シャドーをしていた友永がエプロンサイドから声をかけた。 「上手くなったじゃんか」 「あ、はい。ありがとうございます」  礼を述べる利伸に、三枝が告げた。 「利伸、今日からスウェーイングやるぞ」 「え? あ、はい」  戸惑いつつ頷く利伸に、三枝はファイティングポーズを取る様に指示した。そかへ下から友永が問いかける。 「スウェーやるんスかノボさん?」 「ああ、そろそろいいだろうと思ってな」  三枝が答えると、友永はジムの中を見回してから言った。 「今日ってイバは来れないんスよね? 俺はスウェー苦手なんスけど、手本見せる奴居なくて大丈夫ッスか?」  友永の指摘通り、パーリングの指導で手本を見せてくれた井端は、今日は仕事の都合で練習を休むと連絡が来ていた。三枝は微笑混じりに頷いて返した。 「大丈夫だ、俺だって一応トレーナーだからな」 「いや、そういう意味じゃ」  自分の意見を嫌味と取られたと思ったのか、友永が弁解しかけたが、三枝は笑顔で制して改めて利伸に向き直った。 「スウェーイングってのは、簡単に言うと頭を引いてパンチを避けるディフェンスだ。いいか」  三枝は利伸の横に並んで鏡に身体の側面を映し、ファイティングポーズを取るなり自分の上半身を軽く後ろに反らせて頭を引いた。 「ポイントは、ただ身体を反らせるんじゃなくて、首の付け根の辺りを後ろに引っ張る様な感覚だ」  そう言った直後、三枝はミットの縁で利伸の首の後ろ、骨がやや突き出ている所を触った。利伸は頷いて、身体を反らせて見せた。だが首の付け根を意識し過ぎてかえって顔が出てしまっている。 「それじゃ引けてない、首だけ引くんじゃなくて、背中を反らせるんだ」 「あ、はい」  それからラウンドが終わるまでの間、三枝は利伸のスウェーイングの姿勢を矯正し続けた。  
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