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基本編 ブロッキング(1)
「本当に? いつ頃ですか?」
驚いた三枝が訊き返すと、大森はデスクの上の湯呑みに手を伸ばしながら答えた。
「年末。どうも城島はその辺でタイトルマッチをやろうと交渉してたらしいんだが、チャンピオンの方が先に東洋の一位とやる事に決まって流れたんだと」
現在の日本ウェルター級王者に君臨する中原要士は、かねてから日本と東洋太平洋の二冠獲りを公言していて、最近では国外の選手との試合を多く組んでいた。恐らく城島はその影響で対戦相手候補から外されたのだろうと、三枝は想像した。
「この事、祐次には?」
三枝の問いに、大森はかぶりを振った。
「まだ言わないでおこう。ぬか喜びさせたくないからな」
「そうですね」
微笑しつつ同意した三枝の背後を、着替えを済ませた友永が通り過ぎた。
七月に入って、奥井の練習にも更に熱がこもった。連日、大学生相手のスパーリングを繰り返し、技術と戦術を磨いた。
リングを降りた奥井が、三枝に話しかけた。
「先生、最近利伸君どうです?」
「ああ、あいつは期末テストが近いからここ暫く来てないよ」
三枝が答えると、奥井は目を丸くして大きく頷いた。
「ああ〜そうか期末! そうか今頃ってそんな時期か〜」
「高校生も大変だよな」
「そうッスね〜、俺は学校の成績そんなに良くなかったからなぁ〜。中間とか期末とかもう憂鬱で憂鬱で」
笑顔で喋る奥井に、三枝の後ろから大森が声をかけた。
「ボクシングじゃもっと良い成績残してくれよな、えぇオックン?」
「あ、はぁ〜すみませ〜ん」
何故か謝る奥井に、三枝は腹筋を指示して事務室に戻った。後から来た大森が、三枝に尋ねた。
「どうだオックンは?」
「悪くないですよ、ひと月前なんでここらで一度ピークまで追い込んで、来週には少し緩めて試合一週間前には仕上げに入りますよ」
答えた三枝は、デスクに置かれた急須を取り、傍らのポットから湯を注いだ。
練習を終えた奥井がジムを出た数分後、入れ替わりに利伸が姿を現した。
「チワーッス」
別の高校生のミット打ちをしていた三枝が、リング上から声をかけた。
「よぉ利伸、期末終わったのか?」
「あ、はい。今日で終わりです」
頷いた三枝が目の前の高校生に同じ事を訊くと、彼は一昨日終わったらしい。その間、利伸は大森から同じ質問をされていた。
他の練習生のサンドバッグ打ちを見ていた三枝は、利伸が縄跳びを終えたのを確認すると、パンチングミットを手に取りつつ利伸をリングへ促した。頷いた利伸が、パンチンググローブを嵌めてロープをくぐると、三枝はミットを着けて指示した。
「よし、久しぶりだからまずは軽くな」
「あ、はい」
ラウンド開始のベルが鳴り、三枝はパンチのコンビネーションを指示した。ファイティングポーズを取った利伸が、シャープなパンチを次々と繰り出す。その感触で、三枝は利伸の調子を計った。
一ラウンドを終えて、利伸の調子が悪くないと感じた三枝は、次のラウンドからパンチにディフェンスを織り交ぜた指示を飛ばす様にした。
「ジャブ二発からの右ボディ、左フック返したらスウェーしてワンツー」
「あ、はい」
指示に答えて、利伸は両拳をミットを吸い込ませ、途中で顔面に向かって伸ばされた三枝の右手を綺麗にスウェーでよけて見せた。
「ワンツーフックからこっちのワンツーをパーリングして右アッパー、そっから左ボディフックの顔面に左フック」
「あ、はい」
パーリングを混ぜた要求にも、利伸は流れる様な動きで応じた。気を良くした三枝は、利伸に更に複雑なコンビネーションを要求した。
合計三ラウンズのミット打ちを終えた三枝は、利伸に二ラウンズのシャドーボクシングを指示してリングを降りた。そこへ、友永が入って来た。
「ウーッス」
「おぉ祐次!」
三枝は友永に歩み寄り、リング上でシャドーボクシングを行う利伸を見ながら言った。
「期末終わったから、きようから利伸が来てるんだけどな、そろそろブロッキング教えようと思ってて、お前ちょっと手本見せてくれないか?」
「ブロッキング? いいスけど、スウェーとかもういいんスか?」
友永の質問に、三枝は自信ありげに頷いた。
「ああ。さっきまでミットやってたんたが、パーリングやスウェーを混ぜた難しいコンビも、あいつは涼しい顔でこなしてたよ。ありゃテスト期間中も自主トレしてたな」
「へぇ。それで期末の成績悪かったらガッカリッスね」
「まぁそりゃ自業自得って事だろ」
三枝の返しに笑顔を見せると、友永は事務室の大森に会釈してから更衣室へ向かった。
三ラウンズのシャドーを終えた利伸を呼び、三枝はリング脇で告げた。
「じゃあ今日からブロッキングをやるぞ」
「あ、はい」
戸惑いつつ頷く利伸にファイティングポーズを取らせると、三枝もポーズを取りながら説明を始めた。
「ブロッキングは主にフックに対する防御として使う。パンチは当てられないと言うか、避けてしまうのが一番なのは言うまでもないが、祐次みたいに間合いを詰めるのが速い相手だとよける暇が無かったりするから、そう言う時はブロッキングで対処する。ちょっとフック打ってみな」
「あ、はい」
三枝の指示に従い、利伸が左フックを振る。三枝はガードしていた右腕を外に動かし、フックを迎え撃つ様にして直角に曲げた前腕を利伸の前腕にぶつけた。右フックにも同様に対応する。
「これがブロッキングだ。ただガードするんじゃなく、自分の腕を当てに行って防ぐ」
三枝の説明に、利伸は無言で頷く。三枝はファイティングポーズを取り直して指示した。
「今度は俺がフックを出すから、ブロッキングしてみな」
「あ、はい」
構えた利伸に、三枝が遅めの左フックを放つ。利伸は右腕を上げて防ぐと、すかさず三枝が修正する。
「ガードのまんま出すな、小指の方を相手の腕に向ける感じで受けろ」
「あ、はい」
三枝がもう一度左フックを出し、利伸がブロッキングする。腕の角度が良くなった。
「よぉし、そうだ!」
褒めた三枝が、次に右フックを出した。利伸は左腕を出してブロッキングする。こちらは比較的上手く受けていた。三枝は徐々にフックのスピードを上げた。それを利伸がブロッキングする度にアドバイスを与える。次第に、利伸のブロッキングの精度が上がって来た。相変わらずの飲み込みの早さに、三枝は内心で舌を巻いた。
二ラウンズを費やした所で、三枝は練習を打ち切った。その頃には、友永が縄跳びとシャドーボクシングまで終えていた。後から来た井端も既に縄跳びを終えている。三枝は利伸に向かって告げた。
「この後、祐次にブロッキングの手本見せてもらうから、パンチングボールと腹筋やったら待ってろよ」
「あ、はい」
頷いた利伸は、肩にかけたタオルで顔の汗を拭いながらパンチングボールの方へ行った。
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