番外編 走り込み合宿(1)

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番外編 走り込み合宿(1)

 緩やかな上り坂の途中で停まったタクシーの後部座席から、薄手のジャケットを羽織った三枝が降り立った。運転手の手を借りてトランクから大きなスポーツバッグを取り出し、走り去るタクシーを見送ってからすぐ側の民家に歩み寄った。  コンクリート塀と生垣に囲まれたその民家の表門には『民宿 はやま』と書かれた看板が掲げられていた。三枝はインターホンを押して、マイクを通じて名乗った。 『ああ、三枝さん、お待ちしておりました、どうぞ』  女性の声を聞いた三枝は、表門を開けて中に入った。玄関の引き戸を開けると、そこには初老の女性が待ち構えていた。 『お久しぶりです、おかみさん』  三枝の挨拶に、女性は柔和な表情で答えた。 「こちらこそお久しぶりです、毎年ありがとうございます」  三枝は女性に促されて中へ上がった。二階へ続く階段を横目に廊下を進んで、突き当りにある部屋の襖を開けた女性が、三枝を中へ招き入れた。 「さ、どうぞ」 「どうも」  頭を下げた三枝が、部屋の隅にバッグを置いて息を吐いた。  八畳の和室の中には昔ながらの卓袱台が置かれ、奥にはテレビが設置されている。正面の大きなガラス戸の向こうには、豊富な緑が見えた。 「お疲れでしょう、今お茶お持ちしますね」  退室しようとした女性を、三枝が呼び止めた。 「ああ、その前に、あいつ等は?」 「祐ちゃん達ですか? もう戻って来ると思いますよ」  壁に掛かった時計を見ながら答える女性につられて、三枝も時計に目を転じた。午前十一時二十分を過ぎている。  今女性が言った『祐ちゃん』とは友永の事である。この女性は友永の母方の祖母の羽山照美で、亭主の昌弘と共にこの民宿を切り盛りしている。  頷いた三枝は、左手の押入れから座布団を一枚取り出して卓袱台の側に置き、ゆっくりと腰を下ろした。程無く、照美が冷たい緑茶の入ったグラスを盆に乗せて運んで来た。会釈して茶を受け取った三枝が喉を鳴らして飲んでいると、玄関の方が騒がしくなった。 「ただいまぁ」  聞こえて来たのは、友永の声だった。三枝は茶を卓袱台に置くと、照美に断って部屋を出て玄関へ向かった。 「祐次、戻ったか」 「あ、ノボさん、来てたんスか」  三枝を認めた祐次が汗だくの顔で会釈した。その後ろで、井端と利伸、それにアマチュアの選手ふたりも頭を下げた。皆、友永同様汗だくだある。  三枝の後ろから、照美が祐次達に声をかけた。 「さぁさ、皆さん上がって。お昼ごはん用意しますから」 「ありがとう婆ちゃん」  友永が礼を言うと、井端達も口々に礼を述べる。 「その前に部屋行って汗拭いて来い」  三枝が指示すると、友永達は連れ立って傍らの階段を上った。三枝は彼等を見送ってから、階段の反対側に設けられた食堂に足を踏み入れた。途端に、味噌汁の匂いが鼻をつく。奥の台所では、照美が手際良く食事の準備をしていた。 「何か、手伝いましょうか?」  三枝の申し出に、照美はかぶりを振る。 「いいえ、大丈夫ですから三枝さんもお座りになってください」  三枝は苦笑しつつ、食卓の一角を占拠した。  数分後、友永達がゾロゾロと食堂に入って来た。直後に照美がそれぞれの食事を手早く食卓に並べる。全員が着席した所で、友永が口を開いた。 「いただきます」 「いただきます」  井端達も続き、一斉に食事を始めた。それを見届けてから、三枝も箸を取り上げた。  ひと通り食事を終えて、三枝が利伸に尋ねた。 「どうだ利伸、初めての合宿は?」  利伸は茶をひと口啜ってから答えた。 「あ、はい。キツいです」  そこへ井端が口を挟む。 「いや〜まだまだこんなもんじゃないぜ、本番はこれからよ」 「そうだな」  友永も同調する。三枝は友永に水を向けた。 「おい祐次、午後はあそこへ行くのか?」  友永は傍らのポットから自分の湯呑みに冷茶を注ぎつつ答えた。 「行きますよ、早速」 「あそこって、あそこッスか?」  井端の問いに、友永は口角を吊り上げて頷いた。井端が途端に表情を引き締める。不思議そうな顔をした利伸が、友永に訊いた。 「あの、あそこって?」  友永は表情を変えずに告げた。 「ま、楽しみにしてな」  三枝は苦笑しつつ席を立ち、部屋に戻ってバッグを開けて中身の整理を始めた。  午後一時を過ぎた頃に、三枝は部屋を出て二階へ上がり、友永達に告げた。 「よし、そろそろ行くか」 「ウッス」  既に着換えを済ませた友永が頷き、先に立って部屋を出た。利伸達も後に続く。  三枝は照美から自転車の鍵を借りて、玄関脇に停められた自転車を通りへ出して跨った。先に通りへ出た友永達がウォーミングアップを終えるのを待って、三枝が号令をかけた。 「じゃあ、行こう。皆祐次について行くんだ」 「行くぞ」  友永が声をかけて走り出し、利伸達が後に続いて走る。三枝は自転車で殿を務めた。  緩いアップダウンを繰り返す道を七、八分程走って、友永が足を緩めた。 「ここだ」  立ち止まった利伸が目を見開いたのを見て、三枝は微笑した。
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