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番外編 三度目のリングサイド(1)
まだ気温が高い八月の終わり、三枝は大森の車で『格闘技の聖地』後楽園ホールの前に到着した。
「おい、着いたぞ」
運転席の大森が後ろを振り返りながら告げたのに合わせて、助手席の三枝も背もたれ越しに後部座席を見ると、奥井が自分のスポーツバッグを枕にして眠りこけていた。
「奥井! 起きろ」
三枝が強めに声をかけた途端に、奥井が跳ね起きてルーフに頭をぶつけた。
「痛っ! ああ、おはようございます」
奥井の間抜けな挨拶に、三枝は呆れ顔で返す。
「お前、久しぶりの試合前によくそんな暢気に寝られるな」
「いや〜、昨夜は先生から頂いた対戦相手のビデオ繰り返し観てたら眠れなくなっちゃいまして、すみませ〜ん」
えらく恐縮しながら言う奥井に、三枝は苦笑しつつ車を降りた。続いて奥井も慌ただしく降りて来た。車を停めに行く大森を見送ってから、三枝は腕時計を目を落とした。午後二時を過ぎたばかりである。
「まだ試合まで二時間近くあるから、軽く食事するか」
「はい〜」
笑顔で返事する奥井に、三枝が釘を刺す。
「予備計量あるの忘れるなよ」
「大丈夫ですよ〜、朝家出る前にキチンと体重測って、リミット下回ってるの確認して来ましたから〜」
言葉の調子を聞くと妙に心配になる三枝だが、まさか自分の不注意で一年以上ぶりの試合をパーにはしないだろうと思い直した。そこへ、車を停めた大森が戻って来た。
「んじゃ行くかオックン」
「はい〜」
呼びかけるなり踵を返した大森の後について、三枝は奥井と並んで歩いた。道すがら、奥井が口を開く。
「利伸君、来てくれるかな〜?」
「チケットは渡したんだろ? だったら来るよ」
三枝が安心させる様に言うと、先頭の大森が声を上げた。
「あ、ヒョロ!」
「え?」
異口同音にリアクションした三枝と奥井が、大森の向こう側を覗き込んだ。そこに、Tシャツにカーゴパンツと言う出で立ちの利伸が立っていた。
「チワーッス」
ジムに入る時と同じ調子で挨拶する利伸に、三枝も右手を挙げて答え、訊き返した。
「よぉ利伸。今来たのか?」
「あ、はい」
頷く利伸に、奥井が満面の笑みで歩み寄った。
「いや〜利伸君、来てくれてありがとうね!」
「あ、はい。頑張ってください」
「おお、絶対勝つよ!」
右拳を握ってアピールする奥井に、大森の声が飛ぶ。
「オックン、判ったからちょっとどけ」
「あ、すみませ〜ん」
奥井が利伸の前から下がり、大森が話しかけた。
「おいヒョロ、これからメシ食いに行くんだ、一緒に来いよ」
「あ、いいんですか?」
「いいとも。会長のおごりだ」
後ろから三枝がフォローすると、利伸は軽く頭を下げた。
「あ、はい」
「よっしゃ。あ、オックンは予備計量あるんだから控えめにしろよ」
「それさっき先生に言われましたよ〜」
奥井が突っ込むと、大森は豪快に笑った。
利伸が加わり、四人は行きつけのレストランに入った。奥井がうどんをオーダーし、三枝と大森はそれぞれ定食を、利伸はカレーライスを頼んだ。
料理が来るのを待つ間、奥井が利伸に尋ねる。
「利伸君ってさ、ボクシングの試合生で観るの何回目?」
「あ、はい。三回目です」
「最初が祐次の復帰戦、その次がこの間の井端の試合だ」
三枝が補足を入れると、奥井は何度も頷いた。
「ああ、どっちも八回戦ですね〜、僕は四回戦だから、すぐ終わっちゃうよ」
「あ、はい」
利伸の返事を聞いて、大森が茶々を入れる。
「すぐ倒されて終わるのか?」
「いやいや〜、そう言う事じゃないッスよ〜、酷いなぁ会長〜」
奥井が困り顔で返すと、大森は楽しそうに笑った。すかさず三枝が言う。
「そこはお前、自分がKOして早く終わらせますって言う所だろ?」
「あ、いや〜、そうッスね〜」
頻りに首を傾げる奥井の前に、うどんが運ばれて来た。奥井は目を細めながら箸を取った。
「いただきま〜す」
食事を終え、四人はホールの前に戻った。三枝が利伸を振り返って告げた。
「じゃあ、これから予備計量だから、また後でな」
「あ、はい」
会釈する利伸に手を振って、三枝達は中に入った。観客を入れるのは後一時間程先だ。
控室へ向かう通路で、奥井が誰にともなく言った。
「勝てるかなぁ、勝ちたいなぁ〜」
三枝は何か声をかけようとして、口をつぐんだ。変な事を言うとかえって奥井の緊張を高めてしまうかも知れない。
赤コーナー側の控室に入り、三枝達は荷物を置いて準備を始めた。奥井は予備計量に備えて着替える。程無く、スタッフの指示で奥井が計量の為に控室を出た。大森が同行する間、三枝はウォーミングアップ用のパンチンググローブとミットを取り出して入念にタオルで拭いた。周囲も次第に慌ただしくなって来た。
五、六分程で奥井と大森が戻って来た。三枝と目が合った奥井が、笑顔でサムズアップした。どうやら計量は無事にパスしたらしい。
「よし、じゃあバンテージ巻くぞ。お前は第一試合だから、すぐチェック来るぞ」
三枝の指示に頷き、奥井は自分のバッグからバンテージをひと組取り出した。
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