番外編 三度目のリングサイド(3)

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番外編 三度目のリングサイド(3)

 奥井の右拳をまともに顔面に貰った阿久津が、尻をキャンバスに打ちつけて、ロープに背中をもたせかけていた。 「ダーウン!」  レフェリーのコールが響くが、奥井は何故か阿久津を見つめたまま動かない。レフェリーがニュートラルコーナーへ行く様に指示しているが、聞こえていないらしい。 「奥井! ニュートラルコーナーに行け!」 「オックン! しっかりしろ!」  三枝と大森が声を張り上げて、漸く我に返った奥井が、慌ててニュートラルコーナーへ向かった。その姿に、客席から失笑が漏れる。三枝は奥井の居るコーナーの近くへ駆け寄り、下から怒鳴りつけた。 「ダウン取ってボケっとするな! 試合に集中しろ!」 「すみません、ビックリしちゃって」  本当に驚いたのだろう、奥井の言葉遣いにいつもの柔らかさが無い。 「ともかく、向こうはダウン取られたから必死に取り返しに来るぞ、気を抜くなよ!」 「はい」  神妙に返事する奥井を心配そうに見ながら、三枝は赤コーナー下に戻った。 「オックン大丈夫か?」  話しかけた大森も心配そうだ。三枝は眉間に皺を寄せて答える。 「何か、ダウン取った事に驚いちゃってますね。変に浮つかなければいいんですが」  その内に、阿久津が八カウント目で立ち上がり、ファイティングポーズを取った。レフェリーが奥井と阿久津を交互に見てから再開の合図を出した。 「ボックス!」  三枝の懸念通り、阿久津はダウンを挽回するべく積極的に前に出て来た。 「付き合うな! 回れ!」  三枝が指示する間に、奥井は左腕を伸ばして阿久津の突進を阻み、細かいジャブを打ちながら左に回った。阿久津もパンチを出しながら追う。  サークリングしていた奥井の背中がロープに当たった瞬間に、阿久津が大振りの左フックを浴びせた。何とかブロックしたものの、勢いで奥井の身体がよろめく。阿久津の右が追撃したが、奥井は辛うじてかわして距離を取る。再び向かって来た阿久津に対して奥井がいきなりの右ストレートを打ったがあえなくかわされ、左ボディアッパーを食らう。そこからの顎を狙った左アッパーは空振りで、奥井はジャブを肩口に当てて突き放した。 「奥井! 下から上!」  三枝の指示を受けて、奥井は大きく踏み込んで右ボディストレートを腹に当て、阿久津の右打ち下ろしをかわして左フックを被せた。クリーンヒットこそしなかったが、自分のパンチの勢いと相まってか、阿久津が身体を大きく傾けた。すかさず右で追い打ちをかける奥井に、たまらず阿久津が掴みかかって体重を預けた。レフェリーが割って入り、阿久津にホールディングの注意を与える。  中間距離を嫌ったのか、阿久津が頭をつけて接近戦を挑んで来た。奥井も同調し、互いに額を押し付け合いながらボディへパンチを出す。両者共に五、六発ずつ打ち合った所でレフェリーが分け、また注意する。  再開して、阿久津がワンツーを出しながら詰めて来た。奥井も足を止めて迎え撃つ。お互いのパンチが交錯し、いくつかが顔面を捉える。阿久津が右を空振りした所で奥井がくっつき、クリンチになる。阿久津が上から奥井の首に腕を巻き付けたと同時にレフェリーが分けた。見れば、ふたりとも上半身に大汗をかいている。奥井のスタミナを心配した三枝が大声を出した。 「奥井! 離れてジャブだ!」  相変わらず接近戦を望む阿久津に対して、奥井はガードを上げて左ジャブを伸ばして前進を止める。そこから奥井が踏み込むと、阿久津が捕まえてクリンチする。  そんな展開のまま、第一ラウンド終了のゴングが鳴った。三枝と大森は素早くリングに上がり、持ち込んだ椅子に奥井を座らせた。マウスピースを外し、身体の汗をタオルで拭いつつ訊く。 「おい、大丈夫か?」 「はい〜、何とか〜」  いつもの喋り方に戻っている奥井の様子に、三枝は胸を撫で下ろした。三枝は青コーナーを一瞥してから、奥井に告げた。 「いいか、相手はダウン取られた上に取り返そうとして相当スタミナを使った筈だ。次は更にパンチが荒れるかも知れんから、良く見て打ち返せ。但し接近戦には絶対付き合うなよ」 「わっかりましたぁ〜」  奥井が朗らかに答えた所でセコンドアウトの指示が下った。三枝は奥井に水を飲ませてロープをくぐった。遅れて大森もリングを降りる。 「ラウンドツゥー」  アナウンスの直後にレフェリーが合図し、開始のゴングが鳴った。奥井と阿久津は同時にコーナーから飛び出し、リング中央でグローブを合わせた。奥井が左ジャブを突けば、阿久津は左右のフックを出しながら近づく。奥井がバックステップを駆使してかわすが、阿久津は尚もパンチを出しながら追いすがる。奥井が足を止めて出した左ジャブが額に当たり、阿久津の顎が上がった。すぐに右をボディに伸ばすと、鳩尾にクリーンヒットして相手の身体がくの字に折れた。ガラ空きの阿久津のこめかみに、奥井の左フックが吸い込まれた。阿久津の頭が急激に左へ傾ぎ、横倒しにマットへ落ちた。二度目のダウンだ。 「ダウン!」  レフェリーが奥井の前に割り込み、ニュートラルコーナーを指差した。今回は驚いていないらしく、奥井は素直にコーナーへ下がった。 「奥井! 油断するなよ!」  三枝が戒めると、奥井が横目で見返して小さく頷いた。その横で、大森が言う。 「おい、向こうさん大分ダメージあるぞ」  三枝が阿久津に目を向けると、マットに両手を付けて頻りに頭を振っているがなかなか立ち上がらない。レフェリーのカウントは無情に進む。  七カウント目で、やっと阿久津は足の裏をキャンバスに押し付けて立ち上がろうとするが、膝が震えて力が入らない模様だ。誰が見ても足に来ている。  結局、阿久津は上半身を起こせないままテンカウントを聞いた。ゴングが打ち鳴らされ、ニュートラルコーナーの奥井がガッツポーズを取った。見事なノックアウト勝ちだった。
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