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応用編 マスボクシング(1)
九月に入り、「大森ボクシングジム」内は普段の状況を取り戻しつつあったが、先日の奥井のKO勝ちの余韻は確実に残っていて、練習生達もジムワークに力が籠もっている。三枝はそんなジム内を見回して、満足げに微笑んだ。
「チワース」
いつも通りの挨拶と共に、利伸が入って来た。三枝が右手を挙げて応じると、利伸は首だけを動かして会釈し、三枝の後ろを通って事務室の大森にも挨拶して更衣室へ向かった。その後ろ姿を見送って事務室に入った三枝に、大森が茶を差出しながら尋ねた。
「なぁ、ヒョロはいつまで個人練習やらせるんだ?」
「はい?」
質問の意図を測りかねた三枝が、大森の対面に置かれた椅子に座って訊き返す。大森はデスク上の自分の湯呑を取り上げて答えた。
「いや、あいつもプロ志望だろ? テスト受けるには対人練習が必要だろうよ。もうヒョロも入って一年くらい経つんだし、いつまでもシャドーとミット打ちばっかりじゃ、いくらマイペースそうなあいつでも腐っちまわないか?」
三枝は深く頷いて、活気溢れるジム内へ目を転じた。
他のジム同様、ここにも様々な理由、目的で練習生が集っている。健康維持やダイエット、ストレス解消、またはアマチュアでの試合出場や学校の部活動の延長、その中に利伸の様なプロ志望も当然混ざっている。そんな種々雑多な練習生達のモチベーションを高めて行くのも、トレーナーの重要な役割と言える。
普段の利伸はそれ程強い自己主張もせず、三枝や大森、越中の指示に淡々と従い、その全てを確実にそつなくこなす。優秀と言えば優秀だが、三枝達が利伸のそつの無さと主張の少なさに甘えて、利伸自身のモチベーションを軽んじていないか? 三枝にとって、大森の質問は己にそんな疑義をもたらした。
暫く考えて、三枝が言った。
「そうですね。もうそろそろ甘えは無しにしますか。私も、利伸にも」
大森は頷いて茶をひと口飲み、湯呑をデスクに戻して立ち上がった。
「おし、じゃあ俺もたまには会長らしい所見せるか」
「そんな、見せてるじゃないですかいつも?」
三枝が笑顔で返すと、大森が答えた。
「え〜? いやいや、もっと指導者っぽい事もしないと下はついて来ないよ」
三枝は苦笑すると、茶を飲み干して事務室を出た。
着替えを終えた利伸がウォーミングアップしているのを横目に、三枝はジム内を見渡して練習生を物色していた。そして、奥のサンドバッグが吊るされたスペースへ進み、一心不乱に拳を振るうひとりの大学生の後ろで足を止めた。
ラウンド終了のベルが鳴り、パンチが止んだ所で三枝が声をかけた。
「水島、ちょっといいか?」
呼ばれた大学生、水島孝太は大汗を垂らした顔を三枝に向けて訊き返した。
「何スか?」
三枝は腕組みしながら言った。
「今日、マスやってくれないか? 利伸と」
「マス?」
水島は額の汗を前腕で拭ってから、ウォーミングアップする利伸を見た。
マスとは、マスボクシングの略で、グローブのみを着けて実際にはパンチを当てずに行う疑似スパーリングの事である。本格的なスパーリングの前に、パンチに目を慣れさせる為に行われる。
「利伸君って、プロ志望なんですよね? いいんですか僕で?」
水島は大学のボクシング部に所属しているが、自宅と大学が離れていてなかなか部活動に参加できず、その練習不足を埋める目的でこの『大森ボクシングジム』に通っている。あくまでも目標はインカレ等のアマチュアの試合で、卒業後に就職するつもりの水島にプロボクサーと言う選択肢は無い。従って、明確にプロ入りを目指す利伸とは取り組み方が異なる。そんな自分が相手をして良いのか、と言う疑問を、水島は質問に乗せていた。意味を汲んだ三枝が、笑顔で答えた。
「ああ、いきなり井端とか祐次と当てるよりか、君みたいにインもアウトもこなせる相手とやった方が、変な癖がつかないと思ってな。それに、あいつは異常に目が良いから、アマチュア特有の速いパンチを見せた方が後で対応し易いだろ」
水島は数秒下を向いて考えてから、微笑して答えた。
「いいッスよ。僕で良かったら」
シャドーボクシングを三ラウンズ終えた利伸に、三枝が近寄った。
「おい利伸、どうだ調子は?」
「あ、はい。問題無いです」
利伸は首に掛けたタオルで顔の汗を拭きつつ答えた。三枝は二、三度頷いてから告げた。
「今日、マスやるぞ」
「マス? あ、ああ、いいんですか?」
利伸が不思議そうな顔で訊き返した。まさかそんな事を言われるとは思っていなかったのだろう。三枝は笑顔で言った。
「いいさ、お前もプロになろうとしてるんだから、いい加減実戦に近い練習もしないとな」
「あ、はい」
「その前にミットだ、用意してリングに上がれ」
三枝は利伸に指示して、自らもミットを取ってロープをくぐった。
利伸とのミット打ちを二ラウンズ行った後、三枝は水島とも二ラウンズのミット打ちを行ってから改めて利伸を呼んだ。
「じゃあ、十オンスのグローブ着けて上がれ」
「あ、はい」
指示を受けた利伸がグローブを着け替える間に、水島もグローブを交換した。三枝は水島に歩み寄って告げた。
「マスだが、手加減は無しだぞ」
「オッス」
水島が表情を引き締めた所へ、準備を終えた利伸が上がって来た。三枝はふたりをリング中央に呼んで注意を与える。
「いいか、マスだからって油断するなよ。利伸はパンチを良く見てかわす事と、慌てずにパンチを打つ事を心がけて。水島はできるだけ出入りを多く、カウンターに気をつけろ」
「あ、はい」
「オッス」
ふたりは同時に頷くと、互いに両拳を軽く合わせて対角線上に下がった。数秒後、ラウンド開始のベルが鳴り、三枝が合図した。
「ボックス!」
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