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番外編 帰ってきた男(1)
日曜日の『大森ボクシングジム』は、平日になかなか練習に来られない男性会社員や学生で賑わっていた。三枝は勿論、大森や越中もジム内を動き回って指導に精を出していた。
インターバルに入った時に、三枝はシャドーボクシングを終えた安富雪子に声をかけられた。
「あの、三枝さん」
「ん? どうした?」
「あの子、最近どうですか? 確か、長谷部君」
名字を言われて一瞬戸惑った三枝だが、すぐに理解して答えた。
「ああ、利伸か。あいつはマスボクシングも始めて、更にボクサーらしくなってるよ」
雪子は微笑しつつ頷くと、首に掛けたタオルで額の汗を拭いながら言った。
「そうですか、私も頑張らなきゃ」
「そうだね、大学の方はどうなの?」
三枝も微笑して訊き返す。雪子は溜息混じりに返した。
「大変ですよ、講義について行くのも。それにアルバイトや他のレッスンも詰まってるし。まぁ、全部自分で決めてるんですけどね」
「ほぉ、じゃあここでサンドバッグ叩いてるのは、ストレス発散になってるのかな?」
「そうですね。それに、真剣にボクシングに向き合ってる皆さんを見てると、私も身が引き締まるんです」
雪子の返答に満足げに頷いた三枝は、雪子にサンドバッグ打ちを指示して次の準備にかかろうとした。そこへ、出入口から挨拶の声が聞こえた。
「こんちはっす」
反射的に出入口へ顔を向けた三枝が、目を丸くした。
「あ、二宮!」
三枝の声に、大森が反応した。
「何? キンジローか?」
ふたりの視線の先に、人懐っこい笑顔で佇む、パーカーにジーンズという出で立ちで、左手に紙袋を提げた若い男性の姿があった。このジムに所属するもうひとりのプロボクサー、二宮信太郎である。「キンジロー」は例によって大森だけが呼ぶニックネームだ。
三枝は笑顔で駆け寄り、二宮の肩を叩いて尋ねた。
「よぉ〜久しぶりだなぁ、いつ退院したんだ?」
「先週です。まだリハビリ中なんですけどね」
二宮も笑顔で答え、己の右脚を軽く右手で叩いた。
二宮は三年前にプロデビューし、このジムでは友永に次ぐキャリアだが、昨年行ったプロ五戦目にノックアウト負けを喫し、その際に右眼窩底骨折が発覚した。手術こそ免れたが半年の休養を余儀なくされた。その半年が過ぎていよいよ復帰かと思った矢先に、帰省していた三重県内でオートバイに乗っている時に交通事故に巻き込まれ、右膝と足首を骨折、更に四ヶ月入院する羽目に陥った。
「今日は退院の報告に来ました。あ、これ皆さんでどうぞ」
二宮が差し出した紙袋を受け取った三枝が、中を覗き込んだ。中身は伊勢名物『赤福』だった。
「こいつぁすまんな。ありがとう」
礼を言う三枝の後ろから、大森が二宮に話しかけた。
「何だキンジロー、わざわざこれ持って来る為に来たのか?」
二宮は大森に視線を移して、苦笑しつつかぶりを振った。
「まさか、昨日会社に挨拶に行ったんですよ。幸い、元に戻してもらえるそうで安心しました」
二宮はプロボクサーの傍ら、製菓会社の営業職に勤めていた。社内での成績や評判は良かったらしく、最初の眼窩底骨折の際に休職を願い出たら、ふたつ返事で許可を貰えたのだ。だが交通事故の時には二宮本人だけでなく、大森や三枝も会社に頭を下げて休職の延長を頼んでいた。それだけに、元の職場に復帰できるのは二宮としても嬉しい様だ。
「そうか、じゃあリハビリ済んだらまたこっちに戻って来るんだな?」
三枝が訊くと、二宮がまた首を振った。
「いや、それはこっちの病院でやらしてもらう事にしたんで、来週にはもう引っ越して来ます」
「ほぉ、そりゃ話が早いな」
大森が言うと、二宮は頷いて続けた。
「あっちでのリハビリでもう松葉杖は要らなくなったんで、後ちょっとですよ」
そこへ、二宮の後ろから「チワース」と言う挨拶が聞こえた。直後に、ジャージ姿でスポーツバッグを肩から提げた利伸が入って来た。大森が「よぉヒョロ」と返すと、二宮が眉を上げて後ろを振り返った。
「ヒョロ?」
思わず口に出してしまった二宮と、利伸の目が合った。利伸が反射的に会釈すると、二宮も軽く頭を下げてから三枝に顔を向けて訊いた。
「確かにそんな感じですね。学生さん?」
「ああ、高校三年の長谷部利伸。プロ志望だ」
三枝が紹介すると、二宮は数回頷いて再び利伸を見た。三枝がふたりの間に立ち、利伸に向かって告げた。
「利伸、こちらは二宮信太郎と言って、プロなんだけど去年大怪我してな、やっと復帰できるそうなんだ」
「あ、はい」
いつも通りの返事をした利伸に、二宮が正対して自己紹介した。
「はじめまして、二宮です。宜しく」
「あ、長谷部利伸です。宜しくお願いします」
どちらともなく右手を出して握手すると、二宮は三枝に言った。
「じゃあ、僕はこれで。引っ越したらまた来ます」
「おう、待ってるぞ」
三枝か答えると、横から大森も告げた。
「戻ったらまたビシビシしごいてやるからなキンジロー!」
「あ、お手柔らかに。じゃ、失礼します」
深々と頭を下げて、二宮はジムを後にした。その背中に会釈した利伸に、三枝が言った。
「あいつは、祐次や井端、それに奥井ともタイプが違うからな。まぁ、復帰を楽しみにしてな」
「あ、はい」
頷いた利伸は、三枝の横をすり抜けて更衣室へ向かった。見送った三枝は、紙袋を掲げて練習生達に告げた。
「皆、二宮からのお土産だ。帰りに持ってってくれ」
ジム内が、軽くどよめいた。
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