番外編 帰ってきた男(2)

1/1
前へ
/87ページ
次へ

番外編 帰ってきた男(2)

 十月に入り、年末に予定された城島賢吾との試合に向けて、友永の練習が本格化した。スタミナの豊富さに定評のある城島に対抗する為に、三枝は出入りのスピードの強化を課題に設定した。それに伴い、友永はフィジカルトレーニングを増やし、己の身体を苛め抜いていた。 「そらぁ、あと一分!」 「オォ!」  苦悶の表情を浮かべつつバーピージャンプを繰り返す友永を、三枝が叱咤する。既に全身は汗まみれで、足元には流れ落ちた汗で軽く水溜りができていた。  ラウンド終了のベルが鳴ると、友永は着地するなりその場に膝を着いて荒い息を吐いた。そこへ、出入口から挨拶の声が響いた。 「こんばんはっす〜」  その声に、へたり込んでいた友永が顔を上げた。 「この声は?」  三枝が笑顔で答える。 「そう。察しの通りだ」  その直後、スーツ姿でスポーツバッグを提げた二宮がゆっくりとした足取りで入って来た。前回の訪問からおよそ三週間が経過していた。振り返って二宮の姿を認めた友永が、歯を食い縛りながら立ち上がって呼びかけた。 「シンタ!」 「ユウちゃん!」  二宮は笑顔で応じ、早足で歩み寄った。入門こそ友永が先だが、ふたりは同い年である。 「滅茶苦茶汗かいてるじゃん、どうしたの?」  笑顔を貼りつかせたまま訊く二宮に、友永は口角を吊り上げて答えた。 「ああ、いよいよ城島とやるんでな」 「あ、決まったんだ、いつ?」  代わりに三枝が答える。 「年末だ。本当に待ち焦がれたよ」 「そうっすね、かれこれ三年くらい言ってますもんね」  談笑する二宮に、パンチングボールを叩いていた井端が駆け寄った。 「ニノさん! 退院おめでとうございます!」 「おぉ〜イバ、ありがとう」  井端の祝福に答えた二宮に、三枝が尋ねた。 「で、今日はどうした?」 「あ、医者から許可が出たんで、軽くやってこうかと」  二宮の返答を聞いた友永が、顔の汗を腕で拭いながら言った。 「お前もいよいよ復帰だな」 「まぁ、徐々にね」 その時、ラウンド開始のベルが鳴った。直後に三枝が友永に告げた。 「次、腿上げジャンプ!」 「オウよ!」  返事すると同時に、友永は二宮に背を向けて飛び始めた。井端は二宮に軽く会釈してパンチングボールへ戻った。二宮は三枝に会釈し、事務室の大森に挨拶してから更衣室へ向かった。その前に、練習を終えて着替えを済ませた利伸が出て来た。 「お、確か、利伸君」  二宮が利伸を見上げて言うと、利伸は鳩の如く首を動かして言った。 「あ、はい。こんばんは」 「練習終わり?」  二宮が訊くと、利伸はまた首を動かして「あ、はい」と答えた。二宮は笑顔で頷くと、手に提げたバッグを示して告げた。 「僕も今日から練習するから、今度一緒になったらよろしくね」 「あ、はい。よろしくお願いします」  先程より深く頭を下げると、利伸は二宮の横を通って事務室に立ち寄り、大森に挨拶してジムを後にした。その後ろ姿を見て、二宮が呟いた。 「いいな、タッパあって」  友永が腿上げジャンプを二ラウンズ終えた所で、三枝は二宮が着替えを終えて更衣室から出て来たのを横目で確認した。友永にもう一ラウンド腿上げジャンプを指示してから、二宮に歩み寄った。 「どうだ、久々の練習に臨む気分は?」  二宮は床に座り込んでバンテージを巻き始めながら、三枝を見上げて答えた。 「何か、入門当初に戻ったみたいっすよ。尤も、あの頃はもっと人少なかったですけど」  練習生のひしめくジム内を見渡してから、三枝が言った。 「そうだな、お前さんが入った頃はまだ祐次もプロになってなかったしな」 「懐かしいっすね」  感慨深げな二宮を暫く見つめて、三枝は思いを巡らせた。  二宮がこのジムに入門した頃は、所属するプロボクサーも大森が以前在籍していたジムから引っ張って来た選手ひとりしかおらず、友永もアマチュアで経験を積んでいる段階だった。練習生も今より全然少なく、三枝も大森も、ジムの将来に漠然とした不安を抱いていた。  それから、最初のプロが引退したのと入れ替わりに友永がプロデビューして、二戦連続初回KO勝ちを記録してから俄に注目度が上がり、次第に練習生も増加した。言わば二宮は、このジムの黎明期を知る数少ない練習生のひとりなのだ。 「まぁ、無理しないでやれよ。病み上がりなんだから」 「ウィッス」  笑顔で頷く二宮に微笑を返すと、三枝は友永に向き直った。 「ホラァ脚上がってないぞ!」 「オォー!」  雄叫びで返して、友永は飛び続けた。  フィジカルを終えた友永をリングに上げて、三枝は三ラウンズのミット打ちを行った。大分体力を削ったからか、友永のパンチにいつものキレが無い。 「どうした!? まだ最終ラウンドじゃないぞ!」 「オォーッス!」  ジム内の空気を震わせる程の返事をした友永が、渾身のフックを振るう。三枝はミットを構えながら、横目で二宮の縄跳びを見ていた。さすがに膝と足首の骨折の後だからか、跳び方に若干のぎこちなさを感じた。だがその表情は明るかった。練習できる喜びが滲み出ている様だ。一年近く待たされたのだから当然と言えた。それだけに、焦ってやり過ぎてしまわないかと心配にもなった。  ミット打ちを終えて、三枝は友永に腹筋をして上がる様に指示してリングを降りた。縄跳びを終えてロープを片付ける二宮に近寄って尋ねる。 「どうだ? 大丈夫か?」 「あ、ええ。何とか行けそうっす。やる前はちょっと不安だったんすけど、やってみたら全然響かなかったんで」  二宮の返答に二、三度頷くと、三枝はジム内を見回してから言った。 「じゃあ、今日はシャドー二ラウンズやって上がっていいぞ」 「ウィッス」  返事した二宮が、鏡貼りの壁の前に立ってファイティングポーズを取った。友永の様にガードを高く上げたピーカブースタイルでもなく、利伸が取るアップライトスタイルでもない、左腕を腰の辺りまで下げ、右手も顎の下くらいに構えた極端にガードの低いデトロイト・スタイルである。サンドバッグ打ちを終えた井端が、三枝に近寄って訊いた。 「もしかして、ニノさんシャドーやります?」 「ああ」  三枝が頷くと、井端が目を輝かせた。 「うぉ〜久々!」  その直後、ラウンド開始のベルが鳴った。すると、ダラリと下げた二宮の左拳が、目にも止まらぬスピードで鏡に向かって打ち出された。フリッカー・ジャブだ。病み上がりとは思えない鋭さに、井端のみならず殆どの練習生が動きを止めて注目した。  いつの間にか事務室から出て来ていた大森が、三枝の側に立って言った。 「キンジローの奴、ただ大人しく療養してた訳じゃ無さそうだな」 「そうですね。こりゃ私等が思うより復帰早そうですよ」  三枝は腕組みして答えつつ、軽快な動きでコンビネーションを繰り出す二宮を見つめた。
/87ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加