応用編 スパーリング(1)

1/1
前へ
/87ページ
次へ

応用編 スパーリング(1)

 年が明けて、『大森ボクシングジム』から徐々に友永勝利の余韻が抜けて来た。主役の友永は正月休みが終わると同時にジムワークを再開、井端や二宮も早々に始動した。例外は奥井で、年末年始は故郷に帰省している。  松の内も過ぎた頃、久々に利伸が姿を現した。 「チワース」  丁度リング上で雪子のミット打ちをしていた三枝が、出入口に目を転じて声をかけた。 「おお利伸、あけましておめでとう」 「あ、はい。おめでとうございます」  挨拶した利伸が、三枝と対峙している雪子を認めて少し目を泳がせたのを見て、三枝は口角が上がりそうになるのを必死で堪えた。その雪子も、利伸に新年の挨拶をし、利伸はやや顔を赤らめつつ答えた。  ラウンド終了のベルが鳴り、三枝はミットを下ろして雪子に告げた。 「よし、じゃあ腹筋して上がっていいよ」 「ありがとうございました」  慇懃に頭を下げてリングを降りる雪子を見送ってから、三枝もミットを外してリングを降りた。ミットを窓際に置いて事務室に入ると、大森がデスクで煙草を吹かしながら尋ねて来た。 「ヒョロは今日からか?」 「みたいですね、恐らく今日辺りから通常授業なんでしょう」  答えて傍らの椅子に腰を下ろした三枝に、大森から茶の入った湯呑みが差し出された。会釈して受け取った三枝が茶をひと口啜ると、再び大森が尋ねた。 「ヒョロは、これからどうするんだ?」 「どうする、とは?」  質問の意味を測りかねた三枝が訊き返すと、大森は煙草を揉み消してから言った。 「アイツは高校出たらプロになるんだろ? いつ受けるかはともかく、そろそろマスじゃなくてキチンとスパーやらせるべきなんじゃないか?」  スパー、つまりスパーリングである。今まで利伸が取り組んでいたマスボクシングとは異なり、頭部を守るヘッドギアと金的をカバーするファールカップを着けて、パンチを止めずに当てる実戦形式の練習の事だ。ボクシングのプロテストでは、実技試験で二ラウンドのスパーリングを行うので、プロボクサーを目指すなら必ず行わなければならない。  三枝は腕を組んで数秒考えたが、やがて大きく頷いて返した。 「そうですね、じゃあ今日から始めますか」 「判った」  大森が頷いた所に、着替えを済ませた利伸が出て来た。三枝は大森に頭を下げて事務室を出て、バンテージを巻き始めた利伸に告げた。 「利伸、今日からスパーリングやるぞ」 「え? あ、はい」  顔を上げた利伸は少し戸惑った表情を見せたが、すぐに頷いて手を動かした。そこへ、腹筋を終えた雪子が歩み寄り、利伸に向けて言った。 「スパーリングするの? 怪我しない様にね」 「あ、はい、ありがとうございます」  突然の気遣いに、利伸は鳩の様に頻りに首を動かしながら礼を述べた。その様子に、三枝はまたも笑いそうになった。その前を、雪子が会釈しながら通り過ぎて更衣室へ向かった。  ウォームアップと縄跳びを終えて、シャドーボクシングに取り組む利伸を見ながら、三枝がスパーリング相手を思案していると、そこへ水島が入って来た。 「しゃす!」 「おお、水島か」  三枝は我が意を得たりと言った顔で水島に近寄った。少々怪訝そうに見返す水島に、三枝は申し訳無さそうに言った。 「すまんが、また利伸の相手してくれんか?」 「え? マスですか?」  訊き返す水島に、三枝はかぶりを振って答えた。 「いや、ギア着けてのスパーだ。利伸にはやるって言ってあるから、頼む」 「オッス、判りました」  力強く頷いて更衣室へ向かった水島を見送ると、三枝は利伸に告げた。 「よぉし、あと一ラウンドやったらサンドバッグ二ラウンズな」 「あ、はい」  鋭いパンチを繰り出しながら、利伸が答えた。三枝は頷き返すと、サンドバッグを打っている練習生の側へ歩み寄って発破をかけた。
/87ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加