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応用編 スパーリング(1)
年が明けて、『大森ボクシングジム』から徐々に友永勝利の余韻が抜けて来た。主役の友永は正月休みが終わると同時にジムワークを再開、井端や二宮も早々に始動した。例外は奥井で、年末年始は故郷に帰省している。
松の内も過ぎた頃、久々に利伸が姿を現した。
「チワース」
丁度リング上で雪子のミット打ちをしていた三枝が、出入口に目を転じて声をかけた。
「おお利伸、あけましておめでとう」
「あ、はい。おめでとうございます」
挨拶した利伸が、三枝と対峙している雪子を認めて少し目を泳がせたのを見て、三枝は口角が上がりそうになるのを必死で堪えた。その雪子も、利伸に新年の挨拶をし、利伸はやや顔を赤らめつつ答えた。
ラウンド終了のベルが鳴り、三枝はミットを下ろして雪子に告げた。
「よし、じゃあ腹筋して上がっていいよ」
「ありがとうございました」
慇懃に頭を下げてリングを降りる雪子を見送ってから、三枝もミットを外してリングを降りた。ミットを窓際に置いて事務室に入ると、大森がデスクで煙草を吹かしながら尋ねて来た。
「ヒョロは今日からか?」
「みたいですね、恐らく今日辺りから通常授業なんでしょう」
答えて傍らの椅子に腰を下ろした三枝に、大森から茶の入った湯呑みが差し出された。会釈して受け取った三枝が茶をひと口啜ると、再び大森が尋ねた。
「ヒョロは、これからどうするんだ?」
「どうする、とは?」
質問の意味を測りかねた三枝が訊き返すと、大森は煙草を揉み消してから言った。
「アイツは高校出たらプロになるんだろ? いつ受けるかはともかく、そろそろマスじゃなくてキチンとスパーやらせるべきなんじゃないか?」
スパー、つまりスパーリングである。今まで利伸が取り組んでいたマスボクシングとは異なり、頭部を守るヘッドギアと金的をカバーするファールカップを着けて、パンチを止めずに当てる実戦形式の練習の事だ。ボクシングのプロテストでは、実技試験で二ラウンドのスパーリングを行うので、プロボクサーを目指すなら必ず行わなければならない。
三枝は腕を組んで数秒考えたが、やがて大きく頷いて返した。
「そうですね、じゃあ今日から始めますか」
「判った」
大森が頷いた所に、着替えを済ませた利伸が出て来た。三枝は大森に頭を下げて事務室を出て、バンテージを巻き始めた利伸に告げた。
「利伸、今日からスパーリングやるぞ」
「え? あ、はい」
顔を上げた利伸は少し戸惑った表情を見せたが、すぐに頷いて手を動かした。そこへ、腹筋を終えた雪子が歩み寄り、利伸に向けて言った。
「スパーリングするの? 怪我しない様にね」
「あ、はい、ありがとうございます」
突然の気遣いに、利伸は鳩の様に頻りに首を動かしながら礼を述べた。その様子に、三枝はまたも笑いそうになった。その前を、雪子が会釈しながら通り過ぎて更衣室へ向かった。
ウォームアップと縄跳びを終えて、シャドーボクシングに取り組む利伸を見ながら、三枝がスパーリング相手を思案していると、そこへ水島が入って来た。
「しゃす!」
「おお、水島か」
三枝は我が意を得たりと言った顔で水島に近寄った。少々怪訝そうに見返す水島に、三枝は申し訳無さそうに言った。
「すまんが、また利伸の相手してくれんか?」
「え? マスですか?」
訊き返す水島に、三枝はかぶりを振って答えた。
「いや、ギア着けてのスパーだ。利伸にはやるって言ってあるから、頼む」
「オッス、判りました」
力強く頷いて更衣室へ向かった水島を見送ると、三枝は利伸に告げた。
「よぉし、あと一ラウンドやったらサンドバッグ二ラウンズな」
「あ、はい」
鋭いパンチを繰り出しながら、利伸が答えた。三枝は頷き返すと、サンドバッグを打っている練習生の側へ歩み寄って発破をかけた。
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