番外編 卒業(1)

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番外編 卒業(1)

 二月も後半に差し掛かった頃、夜の「大森ボクシングジム」では、友永と二宮が久々のマスボクシングを行っていた。三枝はエプロンサイドでマットに両手を突き、厳しい目でふたりの動きを注視していた。 「ホラ祐次! もっと足動かせ!」  リング内では専ら二宮が得意のフリッカージャブを連打しながらサークリングし、友永が左右のフックを出しつつ追う展開だった。三枝の横から、井端も声をかける。 「ニノさん! ジャブ走ってますよ!」  二宮は時折笑顔を浮かべながら、左手一本で友永をコントロールにかかった。 「ラスト一分!」  三枝が号令すると、二宮のテンポが更に上がった。ステップも速くなり、時々シャッフルが入る様になった。一方の友永はウィービングしつつ距離を詰めようと試みるが、二宮のジャブの壁を破れずにいた。 「ラスト三十!」  また三枝が大声で告げる。すると、それまで遮二無二前進していた友永が、急に足を止めて一歩バックステップした。突然のブレーキに見ていた三枝達のみならず、対峙している二宮も困惑した。その直後、友永の身体が弾かれた様に前へ出た。二宮が反応した頃には、友永の右ストレートが二宮の顔面すれすれに届いていた。 「うぉっ」  二宮が思わず声を上げる間に、友永は密着して二宮のボディにパンチをまとめた。慌ててガードする二宮の顔面をまたしても友永の右が襲う。それまでの二分三十秒間が嘘の様に形勢が逆転し、友永が面白い様にパンチを繰り出して二宮を釘付けにした。  ラウンド終了のベルが鳴り、ふたりはグローブを合わせてリングを降りた。 「お疲れッス〜」  タオルを手渡しながら労いの言葉をかける井端をあしらった友永が、三枝に問いかけた。 「ノボさん、最近利伸来てねぇよな?」 「あ、そう言えば」  側で二宮も同意する。三枝は微笑混じりに答えた。 「あいつは今期末だと」 「ああ、もうそんな時期か!」  二宮が大きく相槌を打った。友永も無言で頷く。 「利伸の奴、卒業できるんスかねぇ?」  井端が軽い調子で誰にともなく言うと、三枝が返した。 「あいつは学校の事はあんまり喋らないが、特に問題無いって事だろ。大丈夫じゃないか?」 「イバ、お前偉そうな事言ってるけどお前はどうだったんだよ?」  友永が訊くと、井端は何故か苦笑いしてその場をやり過ごそうとした。それを逃さずに二宮が突っ込む。 「あ! お前実はギリギリだったな?」 「いや、そ、そんな事無いッスよぉ〜」  慌てて否定する井端をよそに、友永が三枝に歩み寄って言った。 「卒業って事は、あいつもいよいよプロッスね」 「ああ、そうだな」  感慨深げに頷くと、三枝は井端にミット打ちを指示した。  四日が経った日の昼下がり、三枝はリング上で奥井とミット打ちを行っていた。 「スピード!」 「はいぃ!」  三枝の叱咤に答えつつ、奥井がミット目がけてパンチをフルスイングする。そこへ、出入口から声が入って来た。 「チワーッス」  ミットを構えながら三枝が視線を出入口へ移すと、制服姿の利伸が姿を現した。三枝は視線を戻して奥井に更なる指示と激励を与え、奥井も雄叫びを上げながらパンチを打ち続けた。  ラウンドが終わり、三枝は奥井を労ってミットを外した。その前で深々と頭を下げてリングを降りた奥井が、事務室の手前まで来ていた利伸を見つけて素っ頓狂な声を上げた。 「あらぁ利伸君? どぉ〜したのこんな早くぅ〜?」  三枝は笑いを堪えながらリングを降りると、奥井の後ろから利伸に問いかけた。 「利伸、期末終わったのか?」 「あ、はい。今日終わりました」  利伸の答を聞いて、奥井が三枝と利伸を交互に見て言った。 「え? あ、き、期末試験かぁ〜! そうかぁ期末かぁ〜」  すると、事務室で煙草を吸っていた大森が顰め面で出て来た。 「何だようるせぇなオックン、おおヒョロ、期末終わったのか、良かったな」 「あ、はい」 利伸は軽く会釈すると、男子更衣室へ向かった。それを見送った三枝が、奥井に尋ねた。 「奥井、利伸とスパーするか?」  突然の提案に、奥井は目を真ん丸にして振り向いた。 「え? スパー? い いいんですか先生!?」  三枝はまたしてもこみ上げる笑いを堪えつつ頷いた。 「構わんよ、あいつもプロ志望なんだし、お前も最近マスすらロクにできてないんだから丁度いいだろ」 「あ、わ、わっかりましたぁ〜」  何度も頭を下げる奥井に二ラウンズのシャドーボクシングを指示して、三枝は大森に歩み寄った。 「いいですよね会長?」 「今の調子じゃ駄目って言えねぇだろうよ」  大森は笑顔で返して、再び事務室に入った。三枝はサンドバッグ打ちをしている練習生を見回ってから、着替えを済ませた利伸に近づいて告げた。 「利伸、今日は奥井とスパーやろう」 「え? あ、はい」  利伸は若干困惑の表情を見せつつも、素直に頷いてバンテージを巻き始めた。  その後、利伸はウォームアップしてから縄跳びとシャドーボクシングを二ラウンズずつ行い、更に三枝とのミット打ちを二ラウンズこなした。一方の奥井もシャドーの後は三ラウンズのサンドバッグ打ちと一ラウンドのパンチングボールをこなしてスパーリングの準備に入った。その途中に入って来た越中が、奥井の準備を手伝った。三枝は利伸にファールカップとヘッドギアを装着しながらアドバイスした。 「あいつは上背が祐次より低いが、出入りとハンドスピードは勝るとも劣らんから、気を抜くなよ」 「あ、はい」  いつもの調子で返事する利伸の肩を軽く叩いてリングに送り出すと、遅れて奥井もロープをくぐった。三枝はエプロンサイドに陣取り、越中にレフェリー役を振った。頷いた越中がリングに上がり、ふたりに注意を与えて対角線上へ分けた。  数秒後、ラウンド開始のベルが鳴り、同時にふたりがキャンバスを蹴った。
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