番外編 卒業(4)

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番外編 卒業(4)

 三月も下旬になると、就職を決めた大学生等がジムを去る代わりに、入学を控えた新高校生や大学生が入会して来て、ジムの様相も少しずつ変化する。  三枝と大森は、新しい練習生を相手に基礎の指導に余念が無かった。そんな中に混じって、安富雪子も負けじとシャドーボクシングに勤しんでいた。 「はい、ガード下げない!」 「ハイ!」  三枝の注意に力強く返事して、雪子のパンチのキレが増す。忙しい最中でも足繁くジムに通って自己鍛錬を怠らない雪子を、三枝が眩しそうに見ていると、出入口から挨拶の声が聞こえた。 「チワース」  三枝が目を転じると、お馴染みの制服姿に加えて右手に黒い筒を持った利伸が入って来た。 「おお、利伸!」 「ヒョロか!」  三枝と大森が、同時に声を上げた。三枝は雪子を一瞥してから利伸に歩み寄った。 「利伸、無事に卒業できたか?」  三枝が笑顔で話しかけると、利伸は鳩の様に首を動かしながら右手の筒を示した。 「あ、はい」  利伸が掲げた筒の蓋には高校の校章らしきマークが箔押しされ、その下に『祝 卒業』と記されている。三枝の後ろから大森が口を挟んだ。 「おお〜、良かったなぁヒョロ。三年でダブったら格好悪いからな」 「それは言えますね」  三枝が同調するが、利伸は困惑顔で頭を動かすのみだった。 「それで、今日はすぐ練習するのか?」  三枝の質問に、利伸はかぶりを振った。 「あ、いえ、用意をしてないんで、一旦帰ります」 「そりゃそうだよな」  大森が茶々を入れた所でラウンド終了のベルが鳴り、シャドーを止めた雪子が近づいた。 「長谷部君、今日卒業式だったの? おめでとう」  雪子に声をかけられた利伸が、やや顔を赤らめながら会釈するのを、三枝は微笑ましく見守った。そこへ、またも出入口から挨拶が飛び込んだ。 「こんちわ〜」  入って来たのは奥井だった。気づいた三枝が口を開く前に、奥井が目ざとく利伸を見つけて駆け寄った。 「あ〜利伸君! 卒業したのぉ〜? そぉれはおめでとぉ〜!」  他の練習生の注目を浴びている事も気づかぬまま、奥井は利伸の肩を何度も叩いて祝福した。あまりの勢いに利伸が困っているのを見て取った三枝が助け舟を出す。 「奥井! お前うるさいよいきなり! 判ったから早く準備しろよ」 「ああ〜すいませぇ〜ん、じゃ、利伸君、後でね」 「あ、はい」  朗らかな笑顔で手を振り、奥井は颯爽と更衣室へ入った。三枝が苦笑いして見送ると、大森が近寄って言った。 「アイツは何でああも落ち着きが無いんだろうな?」 「ファイトスタイルそのまんまですね」  三枝も同意して笑う。同様に奥井の後ろ姿を見ていた利伸が、三枝達に向き合って告げた。 「じゃあ、また後で来ます」 「おう、待ってるぞ」 「ビシビシ行くぞヒョロ」  三枝と大森が応じ、利伸は深々と頭を下げて踵を返した。その背中を見ながら、雪子が呟いた。 「彼、いよいよプロボクサーになるんですね」  三枝は腕組みをして頷きながら返した。 「ああ、楽しみだな」  それから二時間程経って、ジャージ姿の利伸が戻って来た。既に雪子の姿は無く、奥井はリング上で大学生とマスボクシングを行っていた。エプロンサイドでマスボクシングの様子を見守っていた三枝が、利伸を振り返って告げた。 「お、来たか利伸、準備できたら縄跳び三ラウンズな」 「あ、はい」  返事して更衣室へ向かった利伸を見送ってから、三枝はリング上に目を転じて奥井に声をかけた。 「ホラァ奥井! もっと出入り速く!」  利伸が縄跳びとシャドーボクシングをそれぞれ三ラウンズずつ終えた頃、練習を終えて着替えを済ませた奥井が三枝に歩み寄った。 「先生〜、今日もありがとございましたぁ〜」 「おぅ、お疲れ」  応じた三枝に頭を下げた奥井が、インターバルで顔の汗をタオルで拭う利伸に向かって言った。 「じゃあ利伸君、またね〜」 「あ、はい。お疲れ様でした」  答えた利伸に手を振って、奥井が出入口へ向かうと、その対面に友永が姿を現した。 「チュース」 「あ! 祐次さぁ〜ん、お久しぶりッスゥ〜」 「お〜、奥井か、もう終わり?」  奥井の出迎えを受けた友永が訊き返すと、奥井は異常に恐縮して答えた。 「はい〜すいませぇ〜ん、失礼しますぅ〜」  横をすり抜ける奥井を見送った友永が、三枝を見て軽く会釈した。 「おう、祐次、今日は早いな」  三枝が訊くと、友永が口角を吊り上げて答えた。 「まぁね」 「まぁとにかく、準備できたら縄跳び三ラウンズだぞ」 「判ってるってノボさん」  三枝の指示に半ば呆れ顔で答えた友永が更衣室へ行きかけて、利伸を見て声をかけた。 「よぉ利伸、卒業できたか?」 「あ、はい。ありがとうございます」  汗を拭いていたタオルを首に掛けて答えた利伸に、友永は微笑を返すと事務室の大森にも挨拶してから更衣室へ入った。その様子を見ていた三枝は、気を取り直してパンチングミットを手に取って利伸に告げた。 「よぉし、利伸! ミットやるぞ、リングに上がれ」 「あ、はい」  返事した利伸が、グローブを手にしてリングに上がった。遅れて三枝もロープをくぐり、ラウンド開始のベルと共にミットを構えた。  二ラウンズのミット打ちを終えた三枝と利伸がリングを降りると、ウォームアップを終えた友永が三枝に問いかけた。 「ノボさん、利伸、卒業できたらしいね」 「ああ、今日卒業式だったそうだ」  三枝が答えると、友永が微笑混じりに言った。 「じゃあさ、卒業祝いって事で、俺とスパーさせてよ」 「何ぃ? それ卒業祝いか?」  驚いた三枝が訊き返すが、友永は微笑を貼り付けたまま尚も言った。 「そりゃそうでしょ、あいつはこれから本格的にプロ目指すんだから、キチンとこちらの世界に迎えてやらねぇとな」 「何だその理屈は? まぁ、いいだろ。但し一ラウンドだけな」 「OK」  サムズアップで答えた友永が、ラウンド開始のベルと同時にシャドーボクシングを始めた。三枝はサンドバッグへ移動した利伸に尋ねた。 「おい利伸、祐次がスパーやろうって言ってるけど、大丈夫か?」  利伸はパンチを打つ手をとめて、やや目を見開いて三枝を見返した。 「え? あ、はい。大丈夫です」  あっさりとした返事に拍子抜けしつつ、三枝は頷いて言った。 「まぁ、一ラウンドだけだからな」 「あ、はい」  答えた利伸が再びサンドバッグに対峙したのを見て、三枝は事務室へ戻った。煙草を吸っていた大森が、吸いさしを灰皿に押しつけてから訊いた。 「ユージの奴、何だって?」  三枝は空いた椅子に腰を下ろしながら答えた。 「それが、卒業祝いに利伸とスパーさせろって」 「はっ、あいつも好きだね」  呆れ気味に言った大森が、急須を取って湯呑みに茶を注ぎ、三枝に差し出した。頭を下げて受け取った三枝が、困り顔で言った。 「ええ〜、しかし祐次と利伸じゃ恐らくかなり階級差ありますからね、マスならともかくスパーってのは、どうも」  自分の湯呑みにも茶を注いだ大森が、急須を置いてから返した。 「まぁ、ヒョロもプロになるんだから、ユージの相手にもなってもらわんとな、いつもバターじゃユージも飽きちまうだろ」 「いや、それは――」  三枝が言い返しかけた所へ、友永が口を挟んだ。 「ノボさん、ミットやろう」 「え? あ、おう、待ってろ」  三枝は慌てて茶を飲み干すと、大森に会釈して事務室を出た。
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