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番外編 卒業(5)
三枝はパンチングミットを手にして、友永の待つリングに上がった。
「よし、行こうか」
「ウッス」
ステップを踏む足を止めて頷く友永の身体は、既に大量の汗をかいていた。
ラウンド開始のベルが鳴り、三枝はミットを構えて友永と対峙した。友永はやや背中を丸めてファイティングポーズを取るや否や、鋭い左ジャブをミット目がけて打ち込んだ。その威力は、一発目から受ける三枝の掌が痺れる程だった。それでも表情には出さず、次々とコンビネーションの指示を飛ばす。
一ラウンドを消化した頃、ジムに二宮と井端が連れ立って入って来た。
「オイッス〜」
「チワ〜ッス」
三枝はふたりを一瞥すると、再びミットを構えた。
三ラウンズのミット打ちを終えて、三枝と友永は一旦リングを降りた。ボトムロープに掛けていたタオルで顔の汗を拭う友永にスパーリングの準備を指示すると、バンテージを巻き終えた井端から質問が飛んで来た。
「三枝さん、祐次さんスパーやるんスか? 俺まだアップもできてないんスけど」
三枝はミットを片付けながら答えた。
「大丈夫だ、相手は利伸だから」
「えぇっ?」
「マジ?」
質問した井端と、その傍らでやはりバンテージを巻いていた二宮が、同時に声を上げた。
「な、何で急に利伸なんスか? あいつはまだ学生じゃないスか」
井端が目を剥いて尋ねるのに対して、三枝は顔を顰めつつ答えた。
「俺が決めたんじゃないよ、祐次が言ったんだ、利伸の卒業祝いだって!」
「え、卒業?」
間抜け面で訊き返す井端の横で、得心した様子の二宮が立ち上がった。
「あーそうか! 高校卒業したのか!」
「そう、今日卒業式だったそうだ」
三枝の言葉を聞いて、井端も納得顔で頷く。
「はぁ〜、それでか。祐次さんらしいお祝いッスね」
「二ラウンズ後にやるからな」
ふたりに告げると、三枝はパンチングボールを叩いていた利伸に近寄ってスパーリングの準備を指示した。利伸も頷き、側のファールカップとヘッドギアに手を伸ばした。
三枝は一旦事務室に入って一服つけてからリングに上がり、スパーリングに臨むふたりの姿を見下ろした。利伸には二宮が、友永には井端がそれぞれ付いてヘッドギアの紐を結び、グローブの装着を手伝っていた。体重差を考慮して利伸は十オンス、友永は十四オンスのグローブを付けさせている。
準備を終えたふたりがロープをくぐると、事務室から出て来た大森が言った。
「ユージ、壊さん程度にやれよ、ヒョロは遠慮しないで行け」
「ウッス」
「あ、はい」
ヘッドギアの奥で、ふたりがマウスピースを噛みながら返事をしたのを見てから、三枝はリング中央に立ってふたりを呼び寄せた。
「お互い怪我には気をつけてな」
ふたりは無言で頷くと、軽くグローブを合わせて対角線に分かれた。三枝はリング下で見守る井端と二宮に向かって告げた。
「お前達、セコンド頼むぞ」
「OK、任しといて。僕は利伸君に付くね」
二宮が笑顔で答えると、井端も頷いて友永のコーナーへ進んだ。
ラウンド開始のベルが鳴り、三枝が合図した。
「ボックス」
中央に進み出たふたりが、互いの左拳を出して軽く合わせると、直後に友永が大きく踏み込んでワンツーを打った。利伸はバックステップで逃れ、ロープ添いにサークリングする。追う友永の顔面へ左ジャブを伸ばすが、友永は額で受けてジャブを二発返す。だがリーチ差と踏み込みの浅さの所為で利伸には届かない。
「そうそう、いい距離感」
二宮が声を飛ばし、井端も負けじと友永にアドバイスする。
「祐次さん、圧力かけて!」
「わーかってら」
口の中で言った友永が、頭を左右に振りながら前進し、右オーバーハンドを振った。利伸は上半身を仰け反らせつつ右脚を引いてかわすと、空いた側頭部へ左フックを打ち込む。友永は怯まずに身体を捻り、強烈な左アッパーを出した。避け切れなかった利伸の右頬を掠め、その拳圧で利伸がバランスを崩した。
「そこ! 詰めて!」
井端が叫ぶと同時に、友永が間合いを縮めて左右の拳を利伸のボディへ放った。何とか両腕を引きつけてガードする利伸だが、勢いに押されてロープに詰まってしまう。
「クリンチ!」
二宮の指示を受けた利伸が、友永の連打の間隙を突いて両腕を伸ばし、友永の頭と左腕を抱え込んで体重を預けた。
「ブレイク」
三枝が割って入り、ふたりを分けた。友永はずれたヘッドギアを直し、利伸は大きく息を吐いた。
三枝が再開の合図をすると、今度は利伸が左ジャブを出しながら前進した。友永はウィービングでかわしながら接近を試みるが、利伸のジャブの速さになかなか入り込めない。そこから利伸が更に踏み込んでワンツーを打った瞬間、友永が左腕で右ストレートをブロックし、右ボディフックを強振した。
「うっ」
友永の右拳が利伸の左脇腹にめり込み、利伸が口から呻き声を漏らしてキャンバスに膝を着いた。
「ダウン!」
三枝が友永の前に入り、ニュートラルコーナーを指差しながらダウンカウントを数え始めた。
「いいッスよ祐次さん!」
友永を励ます井端の声を聞きながら、三枝は利伸の様子を窺った。パンチがレバーに入ったのか、利伸は苦しそうな表情を見せていた。ここで止めようかと三枝が思案しつつカウントを八まで数えた所で、利伸がマウスピースを強く噛み締めて立ち上がった。三枝はカウントを止めて、利伸に尋ねた。
「まだやれるか?」
「あ、はい」
利伸は顎から汗を滴らせつつ頷いた。三枝は一瞬躊躇ったが、友永を振り返って告げた。
「再開だ」
コーナーを出た友永を手で制しながら、再開の合図をした。直後に友永が間合いを詰め、鋭いジャブを放った。利伸がスウェーでかわすと、友永はもう一発左を見せてから右ストレートを顔面へ送った。だが利伸は、右拳で顔面をガードしながら、友永の脇の下を通して左アッパーを打ち上げた。ガラ空きの下顎を直撃し、友永の頭が跳ね上がった。
「おお!」
二宮が感嘆する中、利伸が右ストレートをフォローする。しかし友永は首の筋力を総動員して頭を下げ、右拳を寸での所で避けた。
「凄ぇ!」
井端が驚嘆する中、今度は友永が利伸の胴にタックルする様に組み付いてクリンチした。三枝はすぐにふたりを分け、さり気なく友永の表情を見た。アッパーのダメージは無さそうで、それどころか口角を少し吊り上げて笑っている様に見えた。利伸の対応力に驚くと同時に、面白みも感じているらしい。
「ボックス」
再開すると、ふたりの左ジャブが交錯した。だがリーチの差で利伸のジャブのみが当たる。友永はガードを上げてジャブを防ぎ、頭を下げながら踏み込んでボディへ右を伸ばす。利伸は左腕で友永の右拳を叩き落として、すぐに左ジャブを打つ。ヘッドスリップでかわした友永が左ボディフックを振り、利伸が肘を下ろしてブロックする。左拳を引いた友永が、すぐに左オーバーハンドを顔面へ打ち込むと、利伸が顔を左へ背ける様に回してかわした。スリッピングアウェーだ。
「上手い!」
二宮が声を上げた。利伸は顔を戻しざま、右を外されて身体を泳がせた友永の腹に左ボディアッパーを吸い込ませた。
「ぐっ」
今度は友永が呻き声を出したが、左肩から利伸に向かって倒れ込んでロープに押し込み、クリンチに持ち込んだ。三枝がふたりを分けた所でラウンド終了のベルが鳴った。三枝が間に入って、ふたりはグローブを合わせた。友永が利伸に顔を近づけて、微笑しながら言った。
「これからも、よろしくな」
「あ、はい」
返事した利伸の肩を軽く叩いてリングを降りる友永を見送ってから、三枝は利伸に訊いた。
「お疲れ。大丈夫か?」
「あ、はい。グローブのお陰で助かりました」
利伸の返答に、三枝は頷いてリングを降りた。確かに、友永が着けていたグローブが十四オンスでなく、試合用の八オンスだったら、恐らく利伸は立てなかっただろう。
「お疲れ〜利伸君、それと卒業おめでとう〜」
「お〜、卒業おめでとう利伸!」
「あ、はい。ありがとうございます」
後からリングを降りた利伸が、二宮と井端から祝福の言葉をかけられているのをほほえましく見つめる三枝に、大森が話しかけた。
「ヒョロの奴、よく立ったな」
「ええ、あいつはグローブのお陰なんて言ってますけど、ダウンした時は結構キツそうでしたからね。それでも立つんだからなかなか根性ありますよ」
三枝が返すと、大森が三枝の肩を二、三度叩いて言った。
「育て甲斐があるってもんだな、なぁ三枝よ」
「確かに」
大きく頷くと、三枝は大森と連れ立って事務室へ入った。
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