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番外編 体重測定と階級(1)
四月も半ばに差し掛かり、『大森ボクシングジム』は新たな練習生を迎えて活気づいていた。そんな中、リング上でミット打ちを行っていた三枝と二宮に、エプロンサイドから大森が声をかけた。
「おーい三枝、それとキンジロー」
「はい?」
代表して返事した三枝に向かって、大森が微笑混じりに告げた。
「決まったぞ、復帰戦」
「マジッスか?」
トーンを一段上げた声で混ぜ返したのは二宮だった。三枝は一旦ミットを構えた両腕を下ろし、大森に向き直って尋ねた。
「いつですか?」
「六月頭。ベイシティさんの主催」
「と言う事は、横浜ですか?」
「ああ」
大森の返答に、三枝は大きく頷いて二宮に視線を戻した。当の二宮は額を流れる汗を腕で拭いながら笑みを浮かべていた。
大森の言ったベイシティとは、横浜にある『横浜ベイシティボクシングジム』の事で、興行を主催する際は大抵神奈川県内の会場を使用する。
「それで、相手は?」
三枝が訊くと、大森は何やら不気味な笑みを浮かべながら答えた。
「聞いて驚くなよ。日本ランカー、それも五位だ」
「え!? って事は勝ったら日本ランキング入りもあるかも?」
反応した二宮も、気色悪い笑みを浮かべた。
二宮はプロデビュー当時からフライ級を主戦場にしているが、日本ランキングに入る前に怪我で長期離脱を余儀なくされたので、ランキング入りは悲願であった。
「よぉし、じゃあ早速復帰戦に向けて強化メニューと行くか」
三枝が二宮を振り返って告げると、途端に二宮が表情を曇らせた。
「えぇ〜、もう? まだいいでしょ今日ぐらい」
「甘えんじゃないよキンジロー! 六月なんてすぐ来ちまうんだから、今からキッチリやっとけ!」
大森から喝を入れられて、二宮が肩をすくめている所へ、出入口から野太い挨拶の声が聞こえた。
「オィーッス」
姿を現した友永は、エプロンサイドの大森に軽く会釈し、次いでリング上に目を向けて言った。
「おぉ、シンタか、早いな」
すると二宮がトップロープに寄りかかりながら返した。
「まぁね。あ、それよりユウちゃん、僕の復帰戦決まったよ!」
「マジか?」
友永が目を丸くしていると、三枝が横から口を挟んだ。
「おぅ、六月だ。だから祐次、後で二宮とマスやってくれ」
「えー! 何でそうなるの?」
今度は二宮が目を丸くした。対する友永は不敵な笑みを浮かべて頷いた。その後ろから、井端と利伸が並んで入って来た。実は、利伸は高校卒業後に、井端の勤務先に紹介して貰い、アルバイトに就いている。その為、井端と退勤時間が近い時はこうして一緒に練習に来る様になっていた。
「チュース」
「チワーッス」
「よぉ、シンタ復帰戦決まったってよ」
「え、マジッスか?」
友永の言葉に目を丸くした井端に大森が大声で告げた。
「おおバター! 同じ日にお前も試合だぞ!」
「えぇ〜!?」
井端が更に目を見開いて大森を見返す間に、利伸はひとりで更衣室へ向かった。すると、二宮が三枝に向かって提案した。
「あ、ねぇノボさん! イバも試合なら、階級近いユウちゃんとやればいいじゃん、でさ、僕は利伸君とやらしてよ、多分階級近いし」
三枝は多少面食らいつつも、二宮の提案に思う所あったらしく、更衣室へ行きかけた利伸を呼び止めた。
「おい利伸! お前今体重は?」
訊かれた利伸が足を止めて振り返ったが、数秒首を傾げた後に心もとなげに答えた。
「えっと、多分五十七キロくらいだと思います」
「ホラァ! ユウちゃんより僕に近いじゃん!」
二宮が我が意を得たりとばかりに言うと、三枝は暫く考えてから言った。
「よし、んじゃ二宮と利伸、体重計ろう。それで利伸は丁度良いから、プロテスト受ける階級決めよう」
「あ〜、そりゃ良いな。ヒョロはまだ階級決めてなかったし、そういやまともに体重計ってなかっただろ」
大森が賛同すると、利伸は「あ、はい」と返事した。三枝はミットを外すとまずリングを降りる二宮の為にロープを開けてやり、次いで自分がロープを跨いだ。その間に、大森が事務室から体重計を引っ張り出していた。体重計と言っても一般的な円形の目盛りが付いた物やデジタル表記ではなく、プロボクシングの計量で使われる分銅式の体重計だった。長方形の踏み台の奥から支柱が垂直に伸び、その上に定規の様に目盛りが刻まれた金属の細い板が二本、平行に渡してある。上の板には小さめの、下には大きめの分銅がそれぞれ噛ませてある。板の両端は繋がっていて、踏み台から見て右側はフック状のロックがかけられている。
「試合前に使うのはポンドだけど、ウチのはキロ表示だから判り易いぞ」
大森は利伸に向かって言うと、まず二宮を促した。
「ホレ、キンジロー、乗ってみな」
「オッス」
「不摂生がバレるぞシンタ」
横から茶々を入れる友永を一瞥してから、二宮は体重計に足を乗せた。と同時に、大森が板のロックを外した。途端に、板が軽快な音を立ててロック側に傾いた。台の奥にしゃがみ込んだ大森が、下側の大きい分銅に触れながら二宮に訊いた。
「キンジロー、今何キロぐらいだ?」
「え、多分五十五とか」
明後日の方向を見上げながら二宮が答えると、大森が『55』の目盛りに大きい分銅の端を合わせ、次に上の小さい分銅を『0』までスライドさせた。だが板の釣り合いは取れない。
「どうやらもっとありそうだな」
大森が口角を吊り上げて言うと、二宮はあからさまに嫌そうな顔をした。
「えぇ〜マジか?」
「おい、お前大丈夫か?」
三枝がたまらず口を挟む中、大森が小さい分銅をゆっくりスライドさせて行く。二宮のみならず、三枝や友永も固唾を飲んで目盛りを見つめる。最終的に、『3.8』の目盛りで釣り合いが取れた。つまり、『55』プラス『3.8』で五十八,三キログラムである。結果が出た瞬間、三枝は呆れ顔になり、友永は大笑いした。
「お前、何が五十五だ! 五十八あるじゃないか!」
「ハッハッハ、おいシンタ、いくら病み上がりだからって緩み過ぎだろそりゃ」
バツが悪そうに踏み台を降りる二宮を見てから、大森が利伸を手招きした。
「じゃあヒョロ、乗ってみな」
「あ、はい」
利伸はやや戸惑いながらも、靴下を履いただけの足を踏み台に乗せた。当然、釣り合いは取れない。だが、大森がいくら分銅を小さい目盛りの方へスライドさせても一向に釣り合いが取れない。見かねた三枝が、目盛りを覗き込みながら言った。
「もっと軽いんじゃないですか?」
「ウ〜ム、そうだな」
三枝の進言を容れた大森が、大きい目盛りを『50』に合わせ直し、改めて小さい目盛りをスライドさせた。結果は『54.9』だった。これには三枝も大森も瞠目した。
「え? 利伸、お前五十五ギリギリだぞ!」
「え、そうですか?」
三枝に言われて、利伸も屈み込んで目盛りを見た。その傍らで、友永が尚も笑いながら言った。
「シンタより軽いじゃんかよ」
「うるっさいなユウちゃん、たまたまだよたまたま!」
抗弁する二宮をよそに、三枝は利伸を更衣室へ促してから大森に向き直って訊いた。
「会長、あの体格でこれだと、バンタムですかね?」
「ああ、俺は六十くらいあると思ってたから、絞ってフェザー辺りを考えてたんだが、こりゃあバンタムだな」
それきり三枝も大森も黙りこくった。
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