入門編 ヒョロ(1)

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入門編 ヒョロ(1)

 住宅街の中に立つ雑居ビルの二階を占める『大森ボクシングジム』の事務室で、トレーナーの三枝昇は椅子に腰掛けてぼんやりとテレビを眺めていた。  平日の午後のジムの中は、ダイエット目的の主婦が縄跳びをしているだけで、閑散としていた。夕方を過ぎれば、アルバイトを終えたプロ志望の練習生や学生で賑わい、陽が落ちた頃にはプロボクサーも練習に訪れて手狭に感じるこのジムも、今はとても広く見える。  トイレから出て来た会長の大森慶一が、大欠伸をしながら事務室に入り、三枝の隣の椅子を引きつけて座り、ズボンのポケットから煙草の箱を取り出して一本抜き、火を点けた。 「あれ? 奥さんに禁煙しろって言われたんじゃ?」 「内緒だぞ」  口角を吊り上げてウインクする大森に苦笑を返した三枝が、出入口から微かな物音がしたのに気づいて腰を上げた。  出入口の方に開けられた小窓から覗き込むと、高校生と思しき制服姿の若い男が、所在なげに佇んでいた。三枝は顔を引っ込めて事務室から出て、若者と対峙した。 「何か、用かな?」  若者は三枝と目が合うと反射的に会釈し、妙に用心した様な口調で応えた。 「えっと、ボクシング、したいんですけど」 「入門希望か、まぁ入って。あ、靴はそこで脱いでね」  三枝の指示に従って靴を脱いだ若者は、肩から提げたバッグのストラップをかけ直しながらそろりと中に足を踏み入れた。事務室の小窓に視線を移し、たまたま目が合った大森に軽く会釈する。大森は咥え煙草のまま会釈を返した。  若者がジム内を見渡せる位置に来た時に、丁度壁に掛けてあるタイマーのベルが鳴った。『大森ボクシングジム』に限らず、殆どのボクシングジムには実際の試合と同じ、一ラウンド三分とインターバル一分の間隔に設定されたタイマーがある。そのベルを合図に、主婦が縄跳びを止めた。  突然鳴り響いたベルに若者が首をすくめていると、三枝が微笑しながら話しかけた。 「君、高校生?」 「はい、扇谷高校の二年です」  扇谷高校は、このジムから徒歩十五分程の所にある公立高校だ。確か、ボクシング部は無い筈だった。何故か興味を惹かれた三枝が、更に尋ねる。 「何で、ボクシングやろうと思ったの?」  若者は少し間を置いてから、静かに答えた。 「僕、団体競技に向いてないみたいなんです」 「は?」  三枝は間抜け面で目の前の若者を見上げた。少し猫背だったので気づかなかったが、身長百六十七センチの三枝よりもかなり上背はありそうだ。 「僕、中学からバスケやってて、高校でもバスケ部入ったんですけど、練習試合とか出ると決まって顧問の先生や先輩に怒られるんです」 「何て?」  若者の話に興味を惹かれた三枝が先を促す。若者は難しい顔で続けた。 「僕が、相手のパスやドリブルをカットして、そっから速攻に行くんですけど、それがスタンドプレーだって」 「へぇ」  バスケットボールは門外漢の三枝にも、何となく若者が怒られる理由は理解できた。  バスケットボールに限らず、団体で行う球技の場合、ひとりの選手が突出するのを嫌う傾向にある。チームワークが乱れる、戦術が徹底されない等の理由が挙げられる。かと言って何もしないと、これまたチームワーク云々と文句を言われて参加を促される。三枝自身も学生時代から球技が苦手で、その手の意見に辟易していたので、若者の気持ちも何となく判った。 「そうか、それで、バスケ部はどうした?」 「辞めました、さっき」 「さっき!?」  三枝が瞠目しつつオウム返しに言った。コクリと頷いた若者が、突如明後日の方向に視線を泳がせ始めた。三枝が「どうした?」と尋ねようとした瞬間、ふたりの間を一匹の蝿が高速で横切った。三枝は思わず顔を引いたが、若者の目はずっと蝿を追跡していた。そして、一旦離れた蝿が再び若者に接近した瞬間、若者の右手が跳ね上がった。 「えっ?」  声を漏らした三枝の目の前に、若者の握り拳が突き出された。三枝が目を向けると、手がゆっくり開いた。掌のほぼ中央に、潰れた蝿の死骸が貼り付いていた。 「取れた」  若者が呟き、三枝は再び瞠目した。  ある程度飛行スピードが遅い蚊なら、三枝も同じ様な事をやった経験があるが、目で追うのも厳しい速さの蝿を捕らえるのは、かなり難しい筈だ。この若者は、それをいとも簡単にやってのけた。  不意に、三枝の頭の中に「動体視力」という熟語が閃いた。と同時に、彼がバスケットボールで突出してしまった理由も推測した。  恐らくこの若者は、他の部員達よりも動体視力が優れていて、その為に相手のボールの動きを素早く捉えて奪えたのだ。彼よりも動体視力が劣る他の部員達にしてみれば、彼の動きはスタンドプレーとしか映らないだろう。端からレベルが違うのだから。 「凄いな……」  独りごちてから、三枝は我に返って事務室に入り、デスクの上の箱ティッシュを取って若者に差し出した。 「すまん。これ使って」 「あ、どうも」  若者は軽く会釈してティッシュを一枚抜き、掌から蝿の死骸を除去した。  丸めたティッシュを受け取ると、三枝は若者に告げた。 「じゃあ、やってみるか? ボクシング」 「あ、はい。お願いします」  改めて頭を下げた若者に、大森が事務室から出て来て声をかけた。 「おい君、随分痩せてるなぁ。体重いくつ?」 「え? ああ、確か、五十八キロくらいです」 「え? 身長は?」  背の高さに比べて軽い体重に、驚いた三枝が訊くと、若者は事もなげに答えた。 「えっと、百八十一センチです」  今度は大森も一緒に驚いた。どう考えても痩せ過ぎである。 「へぇ~、じゃ、君はひょろっとしてるから『ヒョロ』だな」 「ヒョロ?」  若者が訊き返すと、代わりに三枝が答えた。 「ああ、すまんね、ウチの会長は、すぐ人に変なあだ名を付けるんだよ。俺なんか、前に麻婆豆腐にハマって毎日の様に食ってたら、『マーボー』って呼ばれ始めて困ったよ」  笑顔で話す三枝につられて、若者も微笑した。 「それで君、名前は?」  三枝に問われて、若者は笑顔のまま言った。 「長谷部、利伸です」
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