光冠を投げ捨てよ

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木のように、蔦や出っ張りもない灰色の石で出来た塔は何度も滑り落ちそうになる。その度に鋭い爪をかけて耐えるが、ざらついた表面にすぐに爪はぼろぼろになって指は擦り切れ血が滲んだ。 それでもアグニは塔を登りいくつも飛び越えた。 目当ての塔に辿りついた頃には指先は赤く染まり上がり、感覚もなかった。 もう少し、というところでずっと足が滑った。足元から体を押し上げるようにして空気がぶつかる。内臓が浮き上がるような奇妙な浮遊感が走る。 「っ!」 すんでのところでアグニは近くの窓枠を片手で掴みぶら下がった。傷だらけの指が引き攣れるような鋭い痛みを上げた。 「あ…っ」 危なかった。そう安堵したのもつかの間。 「な、何かいるの?」 窓から一人の女が顔を出した。 金色の瞳と目が合い、アグニの心臓は一気に縮んだ。 「ぇ、な…っ、ひ」 女はアグニの姿を見た途端、顔色を困惑から恐怖へと染め上げた。 気が付けばアグニは窓枠を飛び越えて塔に入り、暴れる女の口を押さえ付けていた。 「んんぅ」 呻きのような微かな悲鳴を漏らす女の手から、木の盆が滑り落ちる。音を立てて石の上に転がった食器は随分と粗末なものだった。この女は給仕女だろうか。 「騒がないでくれ、頼む、頼むよ」 ここまで来たのに。 アグニは腕に爪をたてられ、体を蹴りつけられながらも必死に懇願した。ここで騒がれれば全て水の泡だ。 「ただ会いたい人がいるだけなんだ。本当だ、それ以外は何もしない」 その言葉を吐き出した途端、女の抵抗する力が急に小さくなった。アグニが拘束していた手をおずおず離すと細い体が床にへたり込んだ。 彼女はアグニを伺う様に見つめた。服は砂埃でぼろぼろに汚れ、指先は血に染まり、今にも泣き出しそうな顔。 女は何故だかばつが悪そうに淡い色の睫毛を伏せた。 「上、…」 女の薄い唇から小さな息が漏れた。 「…その人なら、この上の階。扉には見張りがいるから…外から、天窓から入れるはず」 「ノルンを知ってるのか」 「ただ視えただけ…貴方がどうやって来たかも…」 女は震えながら顔を背けた。 「はやく行って、どこかに消えて。私は何も知らないから」 アグニは彼女に深く頭を下げた。 「ありがとう」 かけられた感謝の言葉に女は目を見開いた。アグニに顔を向けたが、その姿は既に窓から飛び出していた。
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