光冠を投げ捨てよ

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ひたり、と石の床に足音が響く。天窓から差し込む柔らかい光以外そこには何もなかった。静かでとても広いのに、妙な閉塞感を感じる部屋は寒さすら覚えた。アグニは戸惑った表情で辺りを見渡した。何も見えない、が、人の気配はする。何故ノルンはこんな所にいるのだろうか。素朴な疑問が浮かんだが、それは微かに聞こえてきた声で消え失せた。 「誰だ…?」 掠れて聞きとりづらかったが、確かにそれはノルンの声だった。アグニは高鳴る鼓動と全身を震わせる緊張感を必死に抑えこんだ。 「ノルン」 呼吸が止まる音がした。静寂はいつまで続いたか。一瞬か、永劫のようにも感じた。やがて冷たい空気の中に震えた声が響いた。うそだ、という言葉だけが耳に残った。 「お前が、ここにいる筈ない…」 「会いに来たんだ」 「俺の幻だ」 「本当だ」 自責するような苦しげなノルンの声にアグニは胸が痛くなり、今すぐ駆け寄りたい気持ちになった。 「暗くて良く見えない。どこにいる?何でこんな所にいるんだ?どうして神殿に来なかっ…」 「来るな!」 鋭い声に踏み出しかけた足が止まる。 「幻だとしても会いたくない」 アグニは瞳を揺らがせた。それははっきりとした拒絶の言葉だった。 今までノルンにこんなにもきつく突き放されたことなどなかったアグニは体を冷たくさせた。どうして。どうして拒む。 「帰れ」 「…何で?」 「お前の何でやどうしてはもう聞きたくない。俺は二度と神殿には行かない」 杭を打ち付けられたように深く刺さった言葉。 アグニの心臓がちくちくと痛みをあげた。目頭が熱くなり、喉の奥が締め付けられて声が出なくなる。 ――月の民と太陽の民は交われない。それがこの世界の理。 ノルンも本当はそう思っているのか?だから神殿に来てくれなかったのか? 「わかったらすぐに帰れ」 「い、嫌だ」 「帰れ!」 アグニは痛む手を握りしめた。帰りたくない。当の本人に拒まれてもノルンに伝えたいことを大切に抱えてここまで会いに来たのだ。それを伝えるまでは絶対に帰らない。 「そんなに嫌なら俺を殴りつけてでも追い返せ」 「…っ…」 「出来ないなら行く」 「嫌だ…頼む」 切実としたノルンの声が、自分を嫌悪しているわけではないことに気が付いた。問答を繰り返しているうちに目が幾分か暗闇に慣れてきた。アグニは少し離れた壁際に誰かの人影を視た。 音を立てないようにかかとを上げてそうっと近づく。ノルンだ。間違いない。だが今の彼は床に膝をつき、木枷のついた腕は鎖で吊るされている。ぐったり項垂れるその姿は拘束された囚人のようだった。 「ノ、ル」 「!来るなって言ってんだろ!」 アグニの声が近くなっていたことに気が付いたノルンが悲鳴をあげた。おかしい。そう思わずにはいられなかった。 「なんで、俺が近づいたことに気付かない」 「…っ」 「さっきも、誰だって聞いた…」 視える力に長けた月の民は夜の暗闇の中でもものの識別がはっきり出来る、と幼い頃にノルンは教えてくれた。 嫌な予感がした。アグニは手を伸ばしてノルンの頬を両手で押さえた。抵抗する体を押さえ、力任せに顔を上を向かせる。 「嫌だ、触るな!お前にだけは見られたくない!こんな姿…っ」 そして凍り付いた。――無い。 「目、が」 ノルンの両目は抉り取られ、ただの暗い洞穴へと変わり果てていたのだ。
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