光冠を投げ捨てよ

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嘘だ。 アグニは手を離すと数歩後ろへとよろめいた。 頭の中が真っ白になって、自分を満たすものが怒りなのか悲しみなのかすらわからなかった。ただどうすることも出来ずに口元を抑えて咽び泣く。嗚咽が虚しく響いて消えていった。 「どうしてこんな、酷すぎる」 よくよく見ればノルンは目の他にも体の端々に裂傷や痣を残していた。折檻の痕に違いない。 「大袈裟に泣くな、これはただの罰だ」 「罰?お前が何をしたって言うんだ」 「…。結婚を反故にしたからな」 「え」 それはあの時言っていた結婚話のことだろうか。 「結婚しなかったのか…?」 「したけどやめた。…から、このザマだ」 ノルンはどこか自嘲気味に吐き捨て、顔を見られたくないのか背けた。彼らしくもない言動にアグニは違和感を感じた。 月の国で結婚というものがどれだけの重きを置かれているのかはわからないが、ノルンは守り人だ。 神の使いである人間に体罰を与え、あまつさえ目を抉り出すなど。ここまでの仕打ちをすることなのか。 (本当にそれだけで…?) アグニがノルンを問いただそうと口を開いた時、叩きつけるような音を立てて部屋の扉が押し開かれた。 「そこにおるのは誰じゃ!!」 振り返れば、松明を持った大勢の男と、火に赤く照らされた小さな老婆が立っていた。 ノルンが鎖に繋がれたまま身を乗り出して叫んだ。 「アグニ、逃げろ!」 老婆は片手に持った杖を二人に向け、よろめく足取りで近付いてくる。 「ここは反逆者の牢ぞ!そこな者何をしておる!もしや情けで逃がそうとしておるのでは…っ、ひ!」 松明によって照らされた姿が、周囲に恐怖と戦慄を与えた。浅黒い肌に尖った歯や爪、額に生える橙色の角が赤い光に燃え上がる。 「た、太陽の民…っ!!」 老婆はおおっと目元を枯れ枝のような指で覆い隠し、男達は恐怖混じりのどよめきをあげた。 「おお、おお、なんということじゃ、なんという恐ろしい生き物。何故この国におる」 怪鳥のようなけたたましい大音声をあげた。 「ここは月の国!!角持ちの怪物は出てゆけ!!」 獣を追い立てるように杖を向けられたアグニは思わずたじろいだ。 「皆臆するな!角持ちをこの国から追い出せ!!」 「侵略者は殺せ!!引き込んだ罪と共に処刑しろ!」 「そうだ、こいつは国を滅ぼす気だ!!」 老婆が叫べば集まっていた民達も狂ったような雄叫びをあげて同調した。この塔自体が震えるほど増長する怨恨の声に、ノルンは冷や汗を流した。 このままでは殺される。侵略者を引き込んだという罪で自分は間違いなく殺されるだろうが、アグニだけは守りたい。 「逃げろ!お前一人なら逃げ切れる!」 しかしアグニはノルンを庇う様にして立ちながら言い切った。 「嫌だ、逃げない」 「強情もいい加減にしろ!!死んだら終わりだろうが!」 「お前がいなきゃどこへ行っても同じだ」 「何言っ…」 「だから一緒に行こう」 アグニはノルンの体を抱き締めて、彼を拘束する鎖を引きちぎった。 ノルンは呆然として自由になった手でアグニの体に触れた。視界には何も映らない、けれどこの温かさと力強さは確かにアグニだ。 「愛してるんだ、ずっと会いたくて…お前と会うために全部捨てて来た。一緒に生きてくれ」 ノルンは泣きそうな声を出しながら両手で目を覆い隠した。 「無理だっ…!今更…だって、今の俺には何もないんだ」 目を失った今、自分は守り人ではない。唯一アグニと交わることの出来るその地位はアグニを愛したことで失った。こんな姿のままどうやって彼の隣に立てばいいのだろう。 アグニは項垂れるノルンを見つめ、目を伏せて自分の額に手を伸ばした。 「…わかった」 静かな声だった。 アグニは覚悟を決めて自分の額に手を伸ばした。 「なら、俺も同じになる」 ごきん、と何かの折れる音が響いた。 水滴の滴る音、次いですぐに月の民達の悲鳴が耳に届く。同胞達の悲鳴やざわめきの中でノルンは今の音が何なのかすぐに悟った。 「お前まさか…っ」 「俺達はもう守り人じゃない」 アグニは折れた角の額から血を流しながら言った。 一族にとって象徴である体の一部を無くすということは、聖ならざるものに堕ちるという最大の汚辱だ。 「欲しいのはお前と並んで生きる道だけだ。それを邪魔する守り人の力も太陽の加護もいらない」 それなのに、アグニはそれを躊躇いなく捨てた。 「守り人のお前が好きなんじゃない。俺はお前という命そのものに惹かれている」 ただの穴となり果てた目から涙は出ない。けれどノルンは額を地につけて泣き叫んだ。 「一緒に行こう」 ノルンは頷いた。 「冒涜だ」 誰かが這う様に呻いた。 「太陽と月の民が、交わろうとするなんて」 「なんて罪深い」 「きっと災いをもたらす」 「殺せ」 「殺して償わせろ」 暴徒と化した月の民達はそれぞれが松明を振り上げた。一つの大きな炎のようにさえ見える赤い光。彼らを突き動かす感情は怒りではなく恐怖なのだとアグニは感じた。 アグニは息を吸いこむと天を仰ぎ咆哮した。 それは空気を震わせ、松明の火は恐れをなすように揺らめいた。 「聞け!俺はこの国にもあんた達に何もしない!」 静まり返った場にアグニの声が響く。 「ここは俺の愛している人の生まれ育った地だ。だからこそ、この地を荒らすつもりなんてない」 誰も傷つけない、何も奪わない。 アグニは片手に握りしめていた自身の角を老婆に向かって投げ捨てた。 「信じてくれ、頼む」 老婆は蛇のように鋭くこちらを睨んでいたが、やがてふっと息を吐いて肩を落とした。 「……もうよい。わかった、どこへなりとも消えるがよい」 「巫女様、何故!?」 異議を叫ぶ同胞を片手をあげて黙らせると、老婆はアグニ――彼の後ろに佇むものに目を向けた。 「力の強い者には視えるじゃろうて、あの小僧の覚悟が。何より…そこにおわすものが」 その場いた者たちの誰もが声を失い、それを見つめた。アグニが背後を振り返れば天窓から差し込む月光の下に、二本の角を生やした獣が淡い光を纏いじっと佇んでいた。 「お前、」 アグニの声に応え角の下にある耳を動かすそれは、砂漠で惑いかけたアグニを導いたものではない。神像のもう一体の獣だった。 獣へ顔を向けたアグニを見て、老婆が問うた。 「角持ちのお主にも視えるのか」 アグニが頷けば老婆は沈黙し、やがて顔を伏せ沈んだ声を出した。 「本当に冒涜ならばお姿を現すことなどないだろう…守り人を捨て去った今ですらお主は守られておる。ならばお主達こそが、我らのあるべき姿なのかもしれぬな」 「巫女のばば様」 肩を支えられながら立ち上がったノルンは掠れた声で気丈に言い放った。 「これからいくらでも変われる」 定められただけの未来をなぞらなくとも、自分達の意思で生き方を選べばいい。 「俺は後悔していません」 「…そうか」 「ノルン、行こう」 ノルンはアグニに手を引かれながらおぼつかない足取りで歩き出した。同胞達各々がどんな感情を抱きながら自分達を見ていたのかはわからない。 いつか、ほんの少しでもわかってくれるといい。ノルンはそう願った。
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