光冠を投げ捨てよ

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素足に白い砂粒が絡みつく。 果てしない砂漠は一人で必死に駆けた時とはまるで違うものに感じた。それはきっとノルンがいるから、そして寄り添い目の前を歩く光の獣がいるからだろう。 「どこに行くんだ?」 背におぶさったノルンが聞いた。 アグニは首を振った。行くあては考えていない。ただ先導して歩む二匹の後をついていっているだけだった。 「どこかに案内してくれているんだと思う」 来た時もそうだったことを伝えると、ノルンはアグニの肩に強く腕を回した。 「お前は幻惑の砂漠を一人で渡ってきたのか」 「幻惑の砂漠?」 「この砂漠は星の動きを道標にしながら進まなければたちどころに閉じ込められ正気を持って行かれる。月の民は本能的に正しい道を感じ取れるが」 目を持たないアグニにはそれは無理な話だった。事実、アグニはこの砂漠でぐるぐると迷い、意志が揺らぎ力尽きそうになったことを思い返した。 「いつから白い獣が視えるようになったんだ」 「よくわからない。いきなり現れた、ノルンはずっと視えていたのか」 ノルンはまあなと頷いた。今でこそ何も見えないが、以前はしっかりとその姿を視て微かな意思の疎通までしていた。なんとなくこういっている気がするの程度だが。 「神殿にずっといたよ。あそこにだけ住み付いているのだと思っていた」 「あれらは何だと思う」 「わからない」 動物霊なのか、精霊の類か、はたまた本当に神の化身なのか。 ただ一つだけわかることは少なくとも自分達の敵ではないということだ。 「守り人ってなんでいるのだと思う」 「相変わらずなんでばかりだな」 「俺達が交わることが罪なのかな」 ノルンが一呼吸おいて呟いた。 「いいや、違うと思う。それならあの神事は何のためにある」 もしも本当に神が定めたことならば何故守り人という者が存在するのか。 神殿で関わり合う必要だってない。それぞれ別の世界の人間としてお互いに栄えていけばいいだけだ。 「きっと俺達に分かり合ってほしいんだ」 違う種族でも、姿形が違っても、違う土地にいても。離れないでほしい。 いつかはお互いを理解して、赦しあってほしい。 守り人はきっと種を守る存在ではなく、神の意志を告げる橋渡しの存在。 「歴代の守り人がどう思っていたのかはわからないが、少なくとも俺達は交わることを選んだ」 だからこそアグニにはあの白い獣の加護が与えられたのだろう。 「何かが変わってくれるといいな。少しでも」 「うん」 気付けば二人の目の前には、あの神殿への扉が現れていた。 ◇ 大きな水音を連れて水飛沫が宙に舞った。一つ一つの透明な粒が踊り、飛び跳ね、星屑のように辺りに光を散らした。 澄み切った柔らかい水の中に深く体を沈めれば、先程まで感じていた疲労感や、割れるような頭の痛みが和らぎ癒されていった。 勢いよく水から体を起こす。閉じた瞳を開けば跳ね返った溝の向こうに光が見える。 光っている。天井の水晶も、床の篝火も、石像やこの泉でさえも。神殿の中の全てのものが自分達の再訪を待ちわびていたかのようだった。 アグニは額の傷口に指を当てた。そこにはもう何もない。 「ノルン」 同じく泉の中に立つノルンに声をかける。近寄れば、彼の体に刻まれていた傷や痣が消えていることがわかり安堵した。 「目は…」 「痛みは引いた、けど、やはり無くなってしまったものは戻らない」 もう何も見えない。この神殿の光も、自分の姿も、いつかの花の色も、彼の目に届くことはない。 仕方がないなと受け入れて笑うノルンにアグニの胸は締め付けられた。 アグニはノルンの手を引き強く抱きしめた。どれだけ力を込めてもノルンは以前のように痛いとは言わなかった。 (俺の力も、弱まっている) ノルンをおぶさった時から感じていた、今までに無い体の重み。人を軽々と持ちあげられる程の己の力は無くなったのだと理解していた。 こうして現実を突きつけられると少し戸惑いはあった。 もう俺は守り人じゃない。太陽の加護を投げ捨てた、ただの人間。 ――それでもいい。 「俺がいる」 「アグ、」 「ずっといるよ。一人にしない」 聖なる力を無くしても共に生きたい。その意志はきっと間違っていない。 だからこそ、こうして再びここに導かれた。 「愛してくれるか、こんな俺でも。正直あまり良いとは言えない容姿になってるとは自覚してるよ」 「俺だってもう角無しの弱っちい男だ」 角のない俺は嫌いか。アグニがそう問えばノルンは大きく首を振った。 「そんなわけがない、俺はお前という命そのものを愛している」 「同じだ、俺がお前の目になる。俺が…」 歌うようなせせらぎの音の中、あの鳴き声が聞こえた。 聞こえた先は泉の中の神像からだ。アグニは振り返り、はっとした。 あの白い獣達が、それぞれの像の中からするりと抜け出してきたのだ。 「何だ…?」 何も見えないノルンは突然黙ったアグニに怪訝な声を出したが、アグニは返事をすることなく静かに水上を歩いてくるそれらを見つめ続けた。 砂漠でアグニを導いた尾の長い獣が橙色に煌めく何かを咥えていた。アグニは目を凝らす。 「あれは」 月の国で折り、捨てたはずの角だった。 尾の長い獣は二人の前で足を止めるとちゃぷりと角を泉に浸した。角がほどけるように溶けて光に変わる。目を疑うような光景に言葉を失っていると、ふとそれが口を離した。 光は宙に浮き、引き込まれるようにノルンの左目の穴の中へと入っていった。 「う、っ…!?」 「ノルン!」 片目を手で押さえ身を屈めたノルンの体を抱き留める。一体何を、とアグニがそれらに問いかけようとした時、ぽたりと小さなしずくが泉に落ちた。 「あ…」 ノルンの頬を涙が伝っている。ひとつ、またひとつと零れ落ちる涙にアグニは目を見開いた。 自分を見る…――金色ではなく、橙色。 アグニの角で出来た、新たなノルンの目がそこにあった。 「お前の姿が見える」 見える。自分の為に危険を犯してまで迎えに来てくれた青年が。 ノルンはアグニの頬に手を当て優しく口付けた。 「ずっとお前に会いたかった。俺の、アグニ」 ノルンは片方の目から涙を止めどなく流しアグニを抱き締めた。アグニはしっかりと抱き返し、その涙を指先で拭いながら問うた。 「視える、か…?俺の気持ちも」 「いいや…でも、わかる。ちゃんと感じているよ」 アグニは浅黒い頬を紅潮させ、ノルンの肩に額を押し付けた。 触れた肌を通してお互いの鼓動が伝わる。時間が永遠に思えるほどの愛おしさを感じた。 二人は目を見合わせて朗らかに笑った。 「共に愛し合おう」 「ああ、助け合いながら生きよう」 その誓いに呼応するように、神殿の水晶の扉が大きく開け放たれた。 二人は泉から出て扉へと向かう。扉の向こうは燦然と輝いていて何の景色も見えない。 それでもこの先が二人で生きることの出来る世界なのだと確信していた。 「どこに行くと思う」 「どこでもいいさ、一緒なら」 いつか幼い頃のように手を繋ぎあい扉の向こうへと飛び込んだ。 光が二人の体を包み込んだ。この瞬間こそが喜び、これが愛なら、なんて幸せだろう。悲しくて怖がりな世界はもう必要ない。自由だ。 役目を終えた神殿は眠るように滅び、崩れ去る。二人の誰よりも幸せな声が崩れゆく神殿の中に木霊した。 これは誰からも忘れ去られた世界の物語。 愛し合い、人となった、かつて神の遣いと呼ばれた太陽と月の物語。 [完]
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