※ホテルエメラルドシティ

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「夜明けまで…ここにいていいかな。そこの花壇のとこに座っとく。仕事の邪魔はしない」 このまま離れたら、朝が来る前にゆりちゃんが消えてしまいそうだった。 どうにかして守りたいと思う女の子を前にして、相手の言葉や顔色に一喜一憂し、怯えうろたえながらただ慎重に慎重に対応することしかできない自分。 「なんにもわかってない元くんに、大事なことを教えてあげようか。知ってる? 宝っていつか失われることが決められてるんだよ。友達。親子。恋人。誰もずっと誰かと一緒にいることなんかできないよ。誰も『さよなら』からさよならすることはできないのーーだから、」 聞き分けのない子どもに言い聞かせるようゆりちゃんが人と人の有限を諭す。 「…お気に入りのものは、大切なものになる前にさっさと捨てちゃった方がいい。抱えきれなくなってどうしていいかわからなくなる前に思い切って手放しちゃった方がいい。だってその方が心は穏やかでいられるから」 「俺はゆりちゃんと一緒にいられるなら心なんかぐちゃぐちゃになってもいいけどな」 「やめてッ」 俺が口を挟むと、はたき落とすようにちいさく叫んだ。ゆりちゃんの顔がひきつって凍りついている。 「わたしはそんなこと望んでない。やめてよそんな言葉、元くんから聞きたくないよ」 きっと、ぎりぎりの張力で留まっている、今にも壊れてしまいそうな俺とゆりちゃんの世界。このまま危ういバランスを保ちながらそれでもずっとつづいていくと思わせてくれるものが欲しかった。 「今」に留まっていられると、信じさせてくれるものが。 「わたしといて楽しい?」 「楽しいよ」 「…わたしなんかの何がいいの? こんな、嫌なことから逃げてばかりのわたしの。心に余裕がなくていつもイライラしてばかりなわたしの」 俺は、ゆりちゃんよりも一生懸命生きてる人間を見たことがないよ。 ゆりちゃんを見ていると逃げることと立ち向かうことは同義だと感じる。 全力で自分を苦しめるものを憎んで、恨んで、怒って、嘆いて…そしてそれらを振りきるため踊って遊ぶ。 夜の街で、好きなことを好きなようにするゆりちゃんん見ていると自分の「心」を感じる。 誰と出会っても、誰と過ごしても、他人は他人のままだった俺にゆりちゃんが教えてくれた。 『寂しい』ってどんな感情か。失いたくないってどんな気持ちか。 ゆりちゃんに出会わなければ、一生わからないままだった。 ゆりちゃんががくんと脱力し膝を折ってしゃがむ。 肺の空気を全部出し切るような溜め息を吐き、テーブルの端にコツンと額をつける。 「仲良くしなきゃよかったよ…。元くんに、コンビニのレジで遊びに行かない?って誘われたとき、ちゃんと無視すればよかった」 ちいさな声が聞こえてくる。 「なんで無視しなかったの?」 「一緒に遊んでくれる友達が欲しかったの。ずっとひとりでいたから。ひとりは楽だけどさ、自分だけでできることには限りがあって…ゲームセンターの色んなゲームに付き合ってくれる友達が欲しかった。カラオケの採点で競争してくれる友達。テーブルいっぱいにポテトやお菓子を頼んでも全然嫌な顔しないノリのいい優しい友達ーーーそんなことを考えているとき、わたしの前に元くんが現れた。スタイルが良くて、服のセンスが良くて、顔もそこそこかっこ良くて、ベースが弾けて、おまけにバスケットまで上手。クラブで凄く綺麗な人や可愛い子に話しかけられてもまったく緊張したりあたふたしたりしないの。いかつい黒人に絡まれた時だって少しもビクビクせずに飄々とかわしちゃう。学校とかだったらモテる子達が集まる一番かっこいいグループにいるような男の子が毎日わたしと遊んでくれる…」 しゃがんだまま俺を見て、何が可笑しいの?とむっとした。 「いや、なんか…そんな風に見られてると思ってなかったから」 どんな表情でいたらいいのかわからなくなる。俯いて、鼻先を指でかいた。 それなりのいい男には見て貰えていた。でもそれはどこまでも友達としての話だった。 ゆりちゃんが膝を伸ばしゆっくり立ち上がる。さっきまでまばらだった人通りが増し、喧騒が膨らんで時間の流れが速くなっていた。 「さっきケーキを買ってったあの男の人を見てたらパパの書斎のことを思い出した」 「…そっか」 「小学生だった頃、そこで読んだ本の中に書いてあった。『すべての苦しみは救いと解放に繋がっている』…って」 「ゆりちゃんにとって『救い』って何?」 「忘れること」 「父親と母親を?」 「そうだよ。ママが、わたしが妹みたいに大事にしてたあの子を遠くにやったこと。唯一大切に思えた家族を奪われて怒るわたしに『ゆりちゃんやめて、ママをいじめないで』ってしくしく泣いたこと。ちいさな子どもみたいに。それを見たパパが『ママをいじめるのはやめなさい』ってわたしに言ったこと。意味不明な悪夢みたいなあの家を、あの十七年を、思い出させるもの全部頭から消したい」 全部忘れて自由になりたい。 悲痛な、叫びのような願いだった。 「だって…すべての苦しみは救いと解放に繋がってるんでしょ? わたしはまだ苦しみ足りてないってこと?」 エメラルドグリーンのサーチライトが一筋、薄く雪の積もったアスファルトを撫でながらこっちに来る。 「わたし、もうわたしからさよならしたい…」 そして俺とゆりちゃんと、寒さに震える野良猫と、今にも地面に落ちそうな椿の間を過ぎていった。 ここにいる誰の願いも、どこかへ届くことはない。そんな風に見捨てられている気がした。 連続でちいさな咳をするゆりちゃんを見つめながら、ゆりちゃんがこの世界からいなくなる日に、俺も一緒に消えてしまおうと思う。 迷いはない。怖さもない。 決めた瞬間、あんなに不安で重かった心が嘘のように軽くなった。 どうして今まで思い付かなかったんだろう。ふっと息を吐いて顔を上げる。 エメラルドシティは相変わらず綺麗だった。おとぎ話の最後に、これまでずっと大変な旅をしてきた主人公達がたどり着く神々しい夢のような城。 どんな病気も治してくれる魔法のベッドやすさんだ心を癒してくれる音楽がある。 そんな、もう大丈夫と感じられるところまでふたりでたどり着きたかったけど、無理ならもうここでいい。 どこへも行きたくないと言ったゆりちゃんと一緒に、俺もどこにも行きたくない。 もう何にもしたくないと言うゆりちゃんと一緒に俺も何もしたくなかった。 だって 死 そんな意味のわからない場所へ、ゆりちゃんを一人で行かせるわけに行かないんだ。 ーー志摩さん 「ーーん…」 「…大丈夫? ちゃんと俺のこと見えてる?」 優しく肩を揺すられて、徐々に意識がはっきりしてくる。 「てつ…」 水中から引き上げられるよう深い夢の底から帰ってきた。 「どっか痛いところある? 頭が痛いとか、気分が悪いとか」 見えない傷の状態を確かめるように、俺の頬に触れた暖かい手。鼻の付け根と耳の間を往復する親指の優しい動き。 だけど哲の目は突然起こったバグの原因を探している、恐いくらい真剣なまなざしだった。 「…ないよ」 首をふり、視線を伏せる。 頭の中が静まらない。まだ微か、冷たい夜と雪の気配を感じる。 目を合わせていたら、どこへ行ってた? 誰と会ってた? そこまで聞かれてしまいそうだった。 「本当に?」 「ないって。体力の限界が来ただけ。こっちはお前みたいに鍛えてないんだーー…」 ベッドの傍ら、テーブルに置かれた黒い腕時計が視界に入った瞬間、暗い音で心臓が打つ。 バスルームから寝室に移動し、ことを再開する前に哲が外してくれたまだ新しい俺の時計は、マイナス五十度の極寒にも水深千メートルの水圧にも耐えられるのだという。 商品の説明文の最後に、こう書いてあった。永遠に動きつづける時計だって。 ーー誰も、誰かとずっと一緒にいることなんかできないよ ーー誰も、さよならからさよならすることはできないの 自分の指先がぬるりと濡れているのに気づく。確かめると五本の指の爪の間がすべて赤く染まっていて、それはまぎれもなく血の色だった。 視線をずらし、哲の肩と二の腕を見て理由を知る。 エナジードリンクのロゴマークみたいな傷。 血が滲むほど深く爪を食い込ませ、皮膚を引き裂きながら滑り下ろした跡。行為に夢中になりすぎて全然気づかなかった。 「これ、ごめん…」 壊れないものなんかない。優しく、いいよ、と笑った哲の瞳を見上げながら思った。 どんな頑丈に見える人間だって、無傷で生きることなんかできない。 どんなに強い心音を奏でる心臓も、決して「今」に留まることはできない。 俺の新しい時計のように、永遠に壊れない人間なんていない。 虚しさが肺の奥から突き上げてくる。 あの頃から成長してないな、俺は。俺という人間の核に根をはる未熟な子どもの精神が、受け入れるのを拒む。 だって、嫌なんだ。 あの喪失感を二度も味わうのは。 だから好きになった相手が、大事にしたいと心の底から感じさせてくれる人間が、自分の前から消えてしまう『さよなら』という現象をどんな手を使っても回避したい。 強く激しく願いながら、しんどかった。 心に執着が生まれるとその先に地獄が待っているのを知っている。 「志摩さん」 「ん」 「なんて顔してんの」 たしかに、哲の瞳の中の自分はとても情けない顔をしている。 頬に力を入れていないと唇が震えそうだった。 「なあ…」 「ん?」 「俺といて楽しい?」 「…そんなこと聞いて、本当は何考えてるの?」 頭の中に俺の悪い癖が芽吹く。弱くてダメな自分が、逃げてしまおうか、と提案を持ちかける。 友樹を連れてもう一回引越すか? 物理的な距離さえとってしまえば大抵の問題は問題ですらなくなるし、終わらせたくないのなら、何も始めないようにするという選択があるはずだ。 そう… 恭司が言ったように、築かなければいいのかもしれない。関係を積み重ねなければ、繋がりを深めるのをやめれば、ゆりちゃんが言うように心は穏やかでいられる。 足元がぐらぐらし自分に根っこがないのを痛感する。 ーー俺といて楽しい? そんな風に確かめる俺は最低だ。 こんなことを聞いて、哲が少しでも後悔してるそぶりを見せてくれたらいいと思っているんだから。そしたら逃げてしまえる理由ができると思っている。
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