※ホテルエメラルドシティ

21/22
3025人が本棚に入れています
本棚に追加
/212ページ
哲が俺の上からからだをどける。こっちに身を向ける体勢で枕に肘を付き頭を支える。 「志摩さんといると忙しいよ」 怒ってもいない、呆れてもいない。夜の波間のように、ただ穏やかで優しい声だった。 哲が長い人差し指を俺の人差し指に引っかける。血で汚れた指先よりも下、第二関節に絡めると自分の元にきゅっと巻き込んだ。 「…志摩さんが俺の前に現れてから。志摩さんとともくんがうちの隣に越してきたあの日から、時間が流れるのが早いよ。子どもの頃の夏休みみたいに毎日があっという間に駆け抜けてく」 「…俺といると疲れるだろ」 不安や焦りに押し潰されて、感情がすぐに乱れる。 自分の心の問題に他人を巻き込んではいけない。 「んー、疲れる…っていうのとは違うな。なんて言うか、気持ちがにぎやかかな。例えば『後でかけ直す』って言って切られたまま返ってこない電話。手段があるのにそれを待つしかないもどかしさ。夜中に目が覚めてスマホを確認して、落胆する。いい大人の男が何やってんだって情けないし苦しいのに、やめたくないーー俺はさ、志摩さんに感謝してんだよ」 「感謝?」 哲の唇から発せられた単語に意表を突かれ、思わず聞き返すと、 「そう、感謝。こんな気持ちにしてくれてありがとうって思ってる」 頷いて微笑んだ哲の瞳が明るく黒い。 「いつか年とって死ぬ時、思うと思うんだよ。どんな感情も知らずに終わるよりよかったって」 健康な肉体に宿る、眩しいくらい健全な精神。 口元だけじゃなく目でも微笑んでいる哲を見ながら、なんだか…と細く息を吸い込む。アレみたいだ。世界が滅亡する家族映画に出てくる父親役。 どんな悲惨な状況でも、絶対絶命のピンチに追い込まれてもジョークやユーモアを忘れない、最後の最後まで余裕を失わない人間。 「あ、そういえば昼飯食った?」 「いやまだ」 「何か食おっか。ここ、ビーフシチューとオニオンスープがうまいらしいよ。他にもいろいろ、何か食べたい物ある?」 「…俺はいいや。腹減ってんのかよくわかんねーし」 「じゃあ俺がルームサービスのメニュー見てうまそうだなと思う物いろいろ頼むから、志摩さんは気が向いたら気が向いたのだけ食べる。それでいい?」 「…ピザの先っぽの尖ってるとことか?」 「そうそう」 哲が表情をさらに緩ませて朗らかに笑う。 「ホットケーキの上のバターだけ」 どこまで許すんだろうと思いつづけた提案に、哲は喉で笑いながら「それはダメ」と断った。だけどすぐ「いややっぱりいいかな」と言い直す。俺を見つめ、メープルシロップみたいに甘い目元を眩しげに細め、志摩さんならいいよって。 別にピザの先端が食べたかったわけでもホットケーキのバターだけ欲しかったわけでもないけれど、暖炉に薪がくべられていく、そんな気持ちになる。 「てかピザとホットケーキが食べたいんだ」 絶対的な引力で引き留められている。 少しぼうっとなった俺に、どうしたの?と哲が聞いた。 「べつに…強いんだなと思って」 これ以上話すともっと惹かれていきそうだから適当なところで切り上げておこうとか。 ゆりちゃんみたいに俺の前から消えないでくれって言っちゃいそうだから笑って誤魔化しておこうとか。 どうしたら傷つかずに済むか、いつも逆算ばかりしている自分とは全然違う。 「強いのは志摩さんの方だろ」 唐突にありえないことを言われ 「それはない」 即否定した。 「そうかな」 「ないって。ずっと…同じようなことで悩んでるし、気持ちの切り替えとか、この歳になってもできない」 「それは弱いっていうのとは全然違う。俺は仕事柄大勢の人間の内面を観察したり干渉したりもするんだけど、どう考えたって、悩みながら考えつづけられる、そういう人間の方が強いんだよ。メンタルというより精神性の話な。殆どの人間が適当なところで折り合いをつけて生きてる中、岐路に立つたび苦しい方を選ぶ。辛い苦しい状態にずっといることのできる人間が弱いわけないんだよ」 そんな風に見られてるなんて、思ってもいなかった。 全然違う。何一つ合っていないと言っても過言じゃないくらいだ。 訂正しようとして、やっぱりやめた。 ーー学校とかだったらモテる子達が集まる一番かっこいいグループにいるような男の子が毎日わたしと遊んでくれる 胸の奥から沸いてくる気持ちは、ゆりちゃんが俺のことをああ語ったとき感じたものにちょっと似てる。 俺は今、嬉しいんだ。 好きな相手の発するひとつひとつの言葉が目の前の景色を変えて、心模様を変えて、自浄作用が働いて、自己修復がはじまる。 気づいたら、哲が俺に見てる幻想に応えたいと熱望する自分がいた。今はまだ全然違うけどいつか哲が思うような自分になる。 哲。 俺はお前といると青い花火だけがたんたんと打ち上がる夜空の下にひとりきりで立ってるような気持ちになるよ。 青い炎症反応はつくるのが難しくて、だから夜の濃紺に鮮やかで完璧な青の大輪を咲かせる製法はまだ見つかってないんだって。 俺はお前といると凄く贅沢なものをひとり占めしてる気持ちになる。 爪痕のついた肩を掴み、力の入らない上体を持ち上げて、哲の唇の端に口付けていた。 磁石のように引き寄せられ、そっと触れてそっと離れる。 そのあとたっぷり五秒間くらい、お互いに相手の目から目を反らせないでいた。 ただ無言で見つめ合う時間。 自分からこういうことすんのは初めてだな…。哲も、きっと同じことを考えている気がした。 このまま押し倒してくれたらいいのに… 哲はふっと笑い、どうしたの?と聞いた。 わざと、全部わかっていながらそうしてるんだと思った。意地が悪い。 俺は目を伏せ、いいからっ、と言った。 いいから早く、と。 「早く、なに?」 「っーーつづき…」 「つづき…?」 とぼけたふりをして、猫の顎の下でも撫でるように焦らす。 志摩さん、と発せられた甘く優しい低音を額に受け、目蓋が温んだ。 そのまま目を閉じてしまいたくなる。 「ーーん…」 「俺としたい?」 わりにはっきりした声で囁かれ、腹部がじんと痺れた。一心不乱にこくこく頷く。 哲は俺をうつ伏せにし、腹に手を添えそっと腰だけを持ち上げる。臀部を左右に割り広げて優しく体重をかけられる。 来る、そう思ったときにはもう、かなり深いところまで届いていた。
/212ページ

最初のコメントを投稿しよう!