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「元晴」
突然、
耳元で発せられた四つ音の組み合わせ。それが自分の名前だと認識できるまで少し時間がかかった。
下の名前なんて…もう誰からも呼ばれることはないと思っていたから一瞬誰のことかわからなかった。
「ーーてか、知ってたんだ…俺の名前」
戸惑いと、驚きと、気恥ずかしさをごまかして笑うと
「当たり前だろ」
怒ったように腰を引き寄せられる。
「二人でこうしてる時だけ呼んでもいい?」
首筋に顔をうずめ囁かれた切実で誠実な声。緊張しているのか微かに震え揺れていた。
「いいよ」
応えながらシーツについた手の甲に自分の手を重ねると、すぐさま上下が入れ替えられ、また自分が捕まる側になる。
シーツにめり込むほど強く押さえつけられた手。
「元晴」
自分の名前を呼ばれると、自分のからだを感じる。哲の声で呼ばれると、生きている自分のからだとその輪郭を感じる。
ーー元くん
ゆりちゃんの声でひりひりするような心の輪郭を感じていたように。
静かに下ろした目蓋の裏。遠い記憶の向こう側で優しいピンク色のコートを着たゆりちゃんが振り返った。
ーーわたし達、出会わなきゃよかったね。そしたらこんな面倒な気持ち、知らずにすんだ
ちいさな神社からアスファルトの歩道にはみ出した、しだれ桜の枝が俺とゆりちゃんの間でそよいでいる。
二月の終わり。
冬の出口で春の入り口の季節。ふたりで『OZ』を出たあとの光景だった。
俺は「今日は店に戻らない」と店長にかけた電話を切ってコートのポケットに携帯を戻す。
道の先にゆりちゃんのコンビニが見える。
「わたし、あなたを見てると不安になるよ。わたしがいなくなったらこの人どうなっちゃうんだろ…って」
ゆりちゃんは途方にくれたように微笑んだ。
「性別や、姿かたちが違っても、鏡を見るとそこに映るもう一人の自分みたいな元くん。あなたはわたしに似てて…でもわたしより弱くてわたしより優しい。元くんは自分を守るのがヘタだから、わたしがいなくなってもひとりでやっていけるかなって、たまらなく心配になるんだよ」
ゆりちゃんが、もうどうしていいかわからないというような無理やりな笑顔を維持している。
ちいさく鼻をすすったあと、俺に向け、「だからっ」と声を張った。
風に乱れる前髪を押さえうつむいて
「もうしょうがないからさあ…」と、ため息と一緒に言った。
わたし、病院行くよ。
もう少し一緒にいてあげる。
誰かを心配しながら生きていくのは苦しいもんね。
「元晴」
四つの音の連なりが頭の中でほろほろと、砂糖菓子みたいに崩れていくから音という形のないものにすがるよう哲の手に額を擦りつける。
ーー元くん
目の奥が発火して目の縁からぬるい水がぽたぽた落ちる。とめどなく溢れるものが白いシーツにグレーのシミをつくっていく。
鏡を見るとそこに映るもうひとりの自分のようなゆりちゃんのこと、やっぱり、思い出すとまだ悲しい。下の名前を呼ばれると寂しい気持ちがよみがえる。
だけど。
ゆっくり目蓋を開いたその先に、きみがいてくれたらいいのにと、もう願わない自分がいた。
濡れた顔を上げると目に映るもの全部、取り替えたばかりのシーツみたいにあまりにも眩しかった。
ひとつの心に嵐をふたつ、いつまでも宿しておくことはできない。
だから『さよなら』だ。
今ここでそうならなければならない。ゆりちゃんのことを全力で大好きだったように、哲の全部を大切にしたいから俺はもう過去を追わない。
強く思い心に誓った瞬間、やっと…やっと…哲と交わるための魂を得ることができた気がした。後ろめたい気持ちのない。美しいなにかに見合う、その対象と交わるための自分になれた気がした。
哲。もうお前だけだ。
自分に制限をかけていたストッパーが外れる感触を確かに感じた。こみ上げてくる想いを吐き出したくて喉を開く。
「ーーさっき…っ、顔とからだが好きなの?ってお前は俺に聞いたけど、好きじゃないところはひとつもねえよ」
急にぴたりと静止した哲を振り返る。哲はちいさく唇を開き、はじめて見るように俺を見ていた。不意討ちでもくらった顔。
「哲、好きだからな」
全部好きだ。
いくら探しても何をされても何を知っても嫌いになれそうなところはひとつもない。
たとえば今の姿かたちが偽物で、本当は呪いで人間に変えられたカエルなんだって言われても、ただ盲目に肌で、唇で、手で、耳で、性器で、からだ全部で触れたい。
そんな、のぼせあがった者しか口に出せない陳腐なセリフを心を込めて言ってやりたくなる。
驚いている顔をまだ見ていたかったのに、からだをあお向けに返された。
きつくかき抱かれ、皮膚の境目を失うくらい股関を押し当てられ、本能に任せるよう強く激しく穿たれる。
技巧よりも、到達できる限界まで奥へいきたい、そんな意思だけを感じた。目眩がするほど熱いしぶきを受け止める。
飛沫の量と勢いに圧倒されながら哲のからだの重みを全身で味わう。首筋に沁みる荒い吐息。乱れた呼吸を残したまま、哲が言った。
「嬉しいけど…俺の方が好きだよ。ずっと大事にする」
北極の氷さえ瞬く間にとろとろのバニラシェイクに変えてしまいそうな甘い掠れ声が、心の真ん中に落ちてくる。全身に波紋し、目の縁が震える。
シーツに揺れる水面のような日溜まりを見つめた。人って…揺らぐものを見ると切なくなるんだろうか…
想われる喜びが押し寄せて嬉しくて泣きたくなった。
同時に、いつかまた傷つくかもしれない不安が溢れ胸が苦しくなる。
喜び。怯え。不安。期待…高揚感。
一つではない、幾重にも折り重なる感情が、たくさんの色を含んで揺れていた。
恋なんか…
きっと人生の無駄遣いだ。
恋を人生の糧にしようだなんて、愚かなことを考えない方がいい。
恋情を燃やしても、何も残らない。
誰もさよならからさよならすることはできない。
宝物はいつか失われることが決められている。
幸せな思い出はいつかすべて心を貫く鋭利なナイフに代わるから俺はまた傷つくのかもしれない…
でも…
それが…?
それがなんだっていうんだ。
もうそんなこと全部どうでもいいと思えるくらい哲の燃えるような体温が『愛してくれ』といっている。
大丈夫。
ーーどんな感情も知らずに終わるよりいいだろ?
そう、さっき哲が言ったじゃないか。
一瞬で俺にとってお守りの言葉になった。これから先、また不安の海で溺れても、また冷たい夜の底で迷子になったとしても、そのたび哲のくれたこの一言が哲の元へ帰る道をまっすぐに照らしてくれる、暖かなランプの灯火になる。
どんな痛みも、悲しさも、苦しさも、知らずに死ぬよりいいだろう。
この概念が生涯自分を守る。たったひとつの魔法だ。
哲の首に両腕をまわし耳に唇を近づけて「なあ、よかったら今度友樹のこと水族館に誘ってやって。あいつにシャチを見せてやって」と頼んだ。
最中にこんなことを頼むのは分別がないだろうか。だけど哲のことを信じてる。俺の一番大切なものを預けられるくらい。それを今どうしても伝えたかった。
「ーーいいの? 俺で…本当に?」
俺の肩に触れている手のひらに、ぎゅっと力が込められほっとする。
ーーお前がいい。それ以外にない
友樹は白いところが目だと思ってると思うから、きっと驚いた顔が見られるよ。あいつは蕗さんとか先生みたいなしっかりした大人が好きだから、哲に誘われたら絶対凄く喜ぶ。
哲と一緒に、あの美しくて賢くて可愛い生き物を見る時間は、友樹が大人になってからも思い出すたび胸の中がキラキラ瞬く星空みたいな時間になる。それが俺にはわかるんだ。
もっと話をしたい。
もっとセックスがしたい。
もっと日常を共有したい。
もっと秘密を共有したい。
もっと飽きるほど抱き合って体温を、痛みを、感覚を、感情を、心とからだを分け合いたい。
限界まで動きつづけた時計の針が最後のひと振りを刻み静かに壊れるその瞬間まで。
お前となら何でもしたい。
幸せだった。
哲が今、こんなに近くにいる。
《END》
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