鐘楼

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 もともとが線の細い、柔和な雰囲気の男である。男、と言っていい年齢にも達していない。僕より4つ下の16歳、少年の面影を残し、黒の燕尾服を着ていても、まるで男装の麗人といったところだ。  そのしなやかな白い手が、ふわりと鍵盤に置かれた。  遠く、遥か遠くから、厳かな鐘の音が聴こえてくる。ドビュッシー作曲「版画」より、第1曲「塔」──ゆるやかにたなびく朝霧のように地上を撫でる、長く低い鐘の音と、雲間から降り注ぐキラキラとした太陽の光。極限まで抑えられた椎葉のピアニシッシモ(きわめて弱く)は、雄大な自然へ、古びた異国の街並みへ、郷愁へと聴く者を(いざな)う。  そう、この音色だ。  初めて椎葉のピアノを聴いた時、この音色に圧倒されたのだ。繊細で大胆。雄々しく清らか。粗野でいて高貴。相反する2面が互いに絡み付く蔦のように、どこまでもどこまでも、自由に伸びていく。  ブリラーレピアノコンクール──国際的なコンクール入賞者を数多く輩出する、日本において権威あるこのコンクールの全国大会で、僕は椎葉と出会った。9番目に登場した椎葉は、最初の1音で、会場の空気を一変させてしまった。破天荒な曲の解釈、それはコンクールにおいてやってはいけないとされていた事、それを堂々と、さも楽しげにやってのけたのだ。  楽譜にある記号通り、師事する先生のお手本通り「強く弾くように」と言われれば強く、「歌うように」と言われれば歌うようになめらかに。決してピアノ(よわく)フォルテ(つよく)などでは弾かない……そんな、まるで機械仕掛けのような演奏。それは、だが、偉大なピアニストたちの解釈を譜面上に記したものであって、その通りに、忠実に弾けば、最高の演奏ができるという事なのだが。  ならば、それらをコンピュータに打ち込めばいいじゃないか、と思ってしまう。奏者の個性ではなく、楽譜通りの演奏を望むのであれば。
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