3070人が本棚に入れています
本棚に追加
逃げ出したクロの背中を瞳で追い駆けていると、クロはとてとてと廊下に向かい僕の方を向くとまた「うなん」と一声鳴いた。
「ん? なに? 着いてこいって? いやいや、まさか、そんな事……」
そうは思ったのだが、クロはじっとこちらを見据えたまま動かないので、僕はとりあえずクロに着いて行く事にした。クロが向かったのは僕の部屋で、扉の前でクロはまた開けろとばかりに「うなん」と鳴く。
「なに? 僕の部屋に何かあるの?」
僕が部屋の扉を開けると、そこは先程起きた時のまま、何も変わらない僕の部屋だったのだけど、ふと机の上を見やるとそこに置かれていたのは、僕があの時シロさんに魔物の核だと手渡された赤い水晶。
「これ……」
僕はそれを手に取り大事にぎゅっと握りこむ。夢じゃない、やっぱり夢じゃないんだ。シロさんはちゃんと何処かに存在していて、今頃僕を探している!
帰らなきゃ、僕は向こうに帰らなきゃ! だってシロさんを一人になんてさせられないよ、いつでも少し自信なさげで、優しい僕の白い狼。そんな彼を一人きりにはさせられない。
僕がその水晶に気を取られている間、クロはじっとそれを見ていたのだけど、しばらくするとまた「うなん」と鳴く。僕がそちらを見やると、そこには昨日僕が着ていたはずのシリウスさんの服が置かれていた。荷物も一式纏められた状態で、やはり僕はあの時、何者かにこちらの世界に連れて来られたのだと分かる。でも、それは一体誰に? 魔物に? 僕は恐らく魔物の触手に絡め取られたのだと思うのだ、けれど僕は無傷でここにいる。これは一体何故なんだろう?
僕はシロさんに貰った水晶を大事に首にかけた。これは肌身離さず持っていようと思う、だってこれはシロさんが僕に初めてくれた贈り物だ。
何か、向こうとこちらの関係を結びつける手がかりを……そう、思った時僕ははっと気付く、シリウスさんのお守り袋、その中に入っていた写真とSDカード、僕はそれを持っていたはずだ。
飛び付くように鞄を漁る、その中から出てきた巾着袋の中にSDカードは入っていた。
「あった!」
この中に何か手がかりはあるに違いない。僕はそれを持って部屋を飛び出した。僕は自分用のパソコンを持っていない、使いたい時には母の許可を取って母に借りるのが定石なのだけど、今はそんな事をしている暇はない。というか、連絡を取ろうにも僕のスマホが見当たらない。
寝る時にはだいたい枕元に置いて寝るのだけど、その辺には見当たらないので、連絡の取りようがない。だからもうこの際連絡なんて二の次だ!
僕はリビングに置かれたノートパソコンの電源を入れる。そして、SDカードを差し込んでそのデータを読み込んでみた。
SDカードは一枚ではない、けれど最初の一枚目、読み込んだSDカードの内容、それは日記だった。
『まさか子を授かるとは思っていなかった。これは驚くべき事象だ。私にはこの事象を後世に残す義務があると思う……』そういう一文から始まったそれは、言ってしまえば子育て日記、妊娠発覚からつけ始めたらしいその日記は、確かに内容は日記なのだが、読んでみるとまるで何かの観察記録のようで、何とも普通の子育て日記とは言い難い。少し堅苦しい語り口、何故か僕はそれに心当たりが在りすぎる。
「これ、母さんの日記なんじゃ……?」
SDカードを読み込んだつもりで実はパソコンの中身、母が隠していた日記か何かを開いてしまったか? と、慌てた僕なのだけど、確認してみても、それはシリウスさんが持っていたSDカードに入っていた情報で間違いがなく、僕は首を傾げた。
僕の母親は少し変わった人だ。研究家肌とでも言うのだろうか? 少し物事を深く考え込むきらいがあって、語り口も考え方も少し堅い所がある人なのだ。僕は今まで、母みたいな母親というか女性に遭遇した事がないので、母はやはり少し変わり者なのだとそう思う。
「やっぱり、シリウスさんって北斗なのかなぁ……」
もしシリウスさんの持っていたこのSDカードの中身が母の日記で間違いないのならその信憑性はぐんと上がる。けれど、残る疑問はあの世界とこっちの世界は全く違う世界なのに、何故北斗が向こうの世界でシリウスと名乗って生きていたのか、という謎だ。
この世界と向こうの世界はどこかで繋がっている、だけどその接点は一体何処にあるのだろう?
僕が日記を眺め考え込んでいると、背後でドアの開く音が聞こえた。クロが体当たりでドアの開閉をするのは日常茶飯事なので、クロの仕業かと顔を上げたらそこには「あら? 起きていたの?」と、あまり愛想の良くない母親が、何処かから帰って来たのだろう、きっちりとしたスーツを着込んだ姿で、だが、少し疲れた様子で僕を見やった。
「母さん……」
「何をしているの? もう意識ははっきりしたのかい?」
「え……えっと……」
僕は何から言葉を口にしていいか分からずに口籠った。まずは『おかえりなさい』? それとも『この日記母さんの?』と、尋ねるべきか?
「どうかした? 私の顔に何か付いている?」
「ううん、えっと……おかえり、母さん」
「ただいま、はぁ……疲れた。ホント警察って何度行っても嫌なものだね……」
そう言って母はスーツの上着を脱いでソファーの背に掛けると、溜息を吐くようにソファーへと腰掛けた。
「警察? え? なんで警察?」
「昨日からお隣の美鈴ちゃんが行方不明なんだよ。最後の目撃情報があんたと一緒に居たって情報だったものだから、少し話を聞かれてね……」
行方不明? 美鈴が?
「僕、知らないよ……」
そもそも僕は昨日までこの世界にはいなかったのだ、もし僕が美鈴と一緒に居たというのなら、その僕の姿をしていた人間は恐らく間違いなくシリウスさんだ。
そんな僕の頭の中を知ってか知らずか、母さんは「だろうね」と頷いた。
「だってあなたは昨日までここにはいなかった」
「なんで知って……」
「分かっているさ、そんな猫耳の生えた人間なんてこの世界にはいやしない」
思わず僕はばっと頭の耳を隠した。そういえば母さんがあんまりにも普通に話すものだから、うっかり失念していた。そうだよ、この世界に頭に猫耳を生やしている人間なんて存在しないんだ。
「別に隠す必要はない。大体の事情はシリウスに聞いているから」
僕のそんな行動に母は穏やかに言葉を続ける。
「驚かないの?」
「シリウスが……いいえ、北斗が目の前に現れた時にはさすがに驚いたよ」
母はそう言って苦笑する。やっぱりシリウスさんって、僕の兄さん『北斗』なんだ。
「シリウスさんは今、何処にいるの?」
「それが美鈴ちゃんと一緒に行方不明なんだよ……そして現れたのが北斗の姿のあんただもの、驚きすぎて一周回って色々とどうでもよくなったわ」
我が母ながら酷い言い草だ。それにしても行方不明って……僕のこっちでの体、北斗ごとどっか行っちゃったって事? 僕、ものすごく困るんだけど……
「警察にはあなたは何者かに襲われて現在意識混濁中、事件の時の事は何も覚えていないって言ってあるから、ちゃんと口裏合わせるんだよ」
「え、そうなんだ……でも、それって医者にかかって色々調べられたりするんじゃ……僕、こんなだし、それすごく困る」
「医師としての診断は私がおろしましたので問題ありません」
「えぇ……でも母さんは医師って言っても獣医師じゃんか……」
そう、母の職業は獣医師。あちこちの動物病院を転々としている流しの獣医師だ。自分の病院を持たない母は、仕事先を変えるたびに僕を引っ張りまわして、ようやくここ最近落ち着いたくらいに、ひとところに留まれない獣医師なのだ。
「私、ちゃんと医師免許も持っているよ」
「だから、それ獣医師の免許だろ?」
「いいえ、私は元々人間の医者だったんだ、獣医師の免許を取ったのはあなた達が生まれた後。私には獣医としての知識が必要だった、だから獣医になっただけ」
母のまさかの発言に僕は驚きが隠せない。だって、僕が物心付いた頃には母は既に獣医師だった、だからそんな事を欠片も知りはしなかったのだ。
「なんで医者から獣医になんてなったの? 医者の方が稼ぎは良いんじゃないの?」
「必要に迫られたからね、私は医者だけど動物の生態には詳しくなかった。あなたは普通の人間として産まれたけれど、北斗は父親の血の方が濃く出てしまって……北斗をこの世界で育てる為に私にはその知識が必要だったの」
母の言っている意味がよく分からない。いや、分かる、今なら分かる、でもそれは本当に?
「もしかして……僕達の父親って獣人だったりするの?」
母が小さく息を吐き「まぁ、そういう事だね」と、頷いた。
「え? 本当に? でも、どうして? 母さんは向こうの世界の事を知っているの?」
「知っているよ、1ヵ月程度だけど向こうの世界で暮らしていた事もあるからね」
まさかの展開に僕は言葉が出てこない。自分の父親が獣人なのも驚きだが、まさか母が向こうの世界の事を知っていて、あまつさえ暮らした事があると言うのに僕は驚きが隠せない。
「どうやって!? どうやって向こうの世界に行ったの!? そんでもってどうやって帰ってきたの!?」
「話せば長くなるよ?」
溜息を吐くように母は言う。僕は「構わないから話して!」と、改めて母の前に椅子を持ち出し腰掛けた。
そんな僕達を見上げていた愛猫クロが母の膝の上に飛び乗り、丸くなる。
「さてと、どこから話せばいいものか……」
母はそう言ってクロの丸い背中を撫でた。
最初のコメントを投稿しよう!