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母の話しはこうだった。当時、母はまだ医師として働き始めたばかりの新人医師で、それはもう忙しい日々を送っていたのだそうだ。医師といえば聞こえはいいが、新人の医者など奴隷のようなもので、給料もさほどありはしないのに仕事だけは忙しく、しかも人の命を預かるその仕事に母は少しばかり限界を感じていたのだとそう言った。
「毎日毎日休みだろうが呼び出しはかかるし、患者に理不尽な要求をされる事も日常茶飯事、お金だってたいしてもらっている訳でもないのに、医者は楽に金を稼ぐ金持ちだと思われていて、本当にほとほと疲れ果てていたの……」
母はそう言って愛猫クロの背を撫でた。
「ある時、診ていた患者さんが亡くなってね、その家族に理不尽に怒りをぶつけられて、自分は一体なんでこんな仕事をしているのか? と、分からなくなった。もう医者なんて辞めようかと思って夜道を歩いていたら、クロームが私の目の前に現れたんだよ」
『クローム』それはクロの正式名称。僕はなんとなくずっとクロと呼んでいる。なにせ物心付く前から一緒に暮らしている猫だ、幼い頃はそんな名前が覚えられずに黒いからクロなのだと理解して、母も別段それを咎める事もしなかった。
クロは母が拾ってきた猫だというのは分かっていたが、まさか自分が生まれる前だというのは正直ちょっと予想外で、クロはずいぶん長生きなんだな……と、そう思った。
「クロームは誘うように神社に私を導いてね、正直どうしてそこに辿り着いたのかも未だによく分からないのだけど、私は向こうの世界に迷い込んでいたのだよ」
「え? クロが母さんを向こうの世界に連れて行ったの?」
「そう、クロームは向こうの世界の者だから」
「!?」
僕はまじまじとクロを見やる。けれどクロはそ知らぬ顔でぱたりぱたりと尻尾を振った。
「とはいえ、このクロームは仮の姿でね、本体は別にいるのだけどね」
「え?」
「私はこのクロームに誘われて向こうの世界に辿り着いた。そして待ち受けていたのが本物のクロームでね、このクロームはこんな姿(なり)だけど、本体は豹(ひょう)なんだよ」
豹って、ネコ科だよね……? え? もしかして、まさか……
「もしかして、このクロが僕達の父親だったりとか……する?」
「あぁ、そうだよ。たださっきも言ったように、これはあくまで仮の姿だけどね」
母はそう言ってまたクロの背を撫でた。そしてクロはやはり知らん顔だ。
「母さん達、離婚したんじゃなかったの!?」
「離婚もなにも、そもそも結婚していない。クロームにはこちらの戸籍がないからね」
母は別段驚いた風でもなく淡々と僕にそう言うのだけど、僕は何から理解していいのか大混乱だ。
「クロームは私を向こうの世界に呼び寄せたんだ、それは彼の単なる知的好奇心からの半分遊びのようなものだったのだけれど、私はまんまとおびき寄せられ、向こうの世界に迷い込んでしまった。彼は私を見て、一目惚れだとそう言った。正直意味も分からなくて戸惑ったものだよ」
母は何かを思い出しているのだろう、宙を見やって吐息を零す。
「言ってはなんだが、私はそれまで勉強一筋に生きてきた人間でね、女らしい所など欠片もない、愛想もなければ色気もないという自分を重々理解していたからね、こいつは一体何を寝惚けた事を言っているのか? と、そう思ったよ。しかも相手は今まで見た事もない二足歩行をする動物だ、ついに自分の頭がおかしくなったのだとそう考えるしか理解もできなくて、困惑したな」
「クロームさん……えっと、父さんは、どうやって母さんを向こうに連れて行ったの?」
「詳しいやり方はよく分からないが、クロームは向こうの世界でも稀な『大賢者』とかいうやつらしくてね、魔法でちょいちょいと呼び寄せたとか何とか言っていたけど正直よく分からない」
魔法でちょいちょいって……しかも大賢者って、ちょっと!
「もしかして、向こうの世界で父さんって凄い人なの?」
「まぁ、そうなのだろうな。現在は投獄されているけれど」
ええぇぇえぇ……
「投獄って、捕まってるって事!?」
「まぁ、そうだな。クロームは向こうの世界に巨悪の魔物を呼び寄せた魔王の使いなのだそうだ」
「えぇ!?」
「そんな危険人物を野放しにはできないと、捕らえられ今は中央で幽閉生活だ。まぁ、言っても中身はここにいる訳で、向こうにいるのはいわば抜け殻なのだけど……」
僕はもう一度まじまじとクロを見やる。クロはどこか飄々とした表情で、一声高らかに「にゃあ」と、鳴いた。
「僕にはクロが普通の猫にしか見えないんだけど……」
「昼間は基本的にあいつは寝ているからな。こちらの世界で自分の自我を保つのは意外と骨が折れるらしく、一日のほとんどをこの猫の体の中で眠っている」
「それ、本当の話なの?」
「私がそんな愉快な嘘を吐ける人間だとでも思うのかい?」
言われてしまえばその通り。僕は母に冗談のひとつも今まで一度だって言われた事がないんだ。冗談のまるで通じない堅物の母は、こちらが笑いを取ろうとしたって欠片も笑ってくれたためしもない。
「でも、だったらなんで北斗……うんん、シリウスさんだけ向こうの世界に暮らしていたの?」
「この世界に耳と尻尾の生えた人間が普通に暮らしているのならば、問題なかったのだけどねぇ……」
確かに!
「お前は普通に人の子として生まれたから良かったが、北斗は半獣人として生まれてしまった。どうにかこうにか、その耳と尻尾を切除出来ないかと努力はしたのだが、それは密接に神経と絡んでいて、とても難しかったのだよ。クロームの魔法で誤魔化す事も出来ない訳ではなかったけれど、クロームはクロームで自分の自我を保つので精一杯だ、だから、私は獣医師の資格も取った訳なのだけど、正直あまり役に立たなくてね……」
幼い頃、両親は北斗だけを連れて何処かへ出掛ける事が多かった。それは、北斗のその耳と尻尾をどうにかしなければ、と奔走していたとそういう事か!
「どちらにしてもその当時、私は医師としても獣医師としてもペーペーで、北斗に何もしてやる事ができなかった。けれど北斗一人を閉じ込めて生活する訳にもいかなくて、北斗は向こうの世界のクロームの友人に預けたのだよ」
「それがシロさんのお父さん?」
「私はそのシロさんというのを知らないのだけど、友人の名前はジロウという名の狼の獣人だった」
やっぱりそうだ! それで、そのジロウさんが北斗をシロさんに預けて、北斗はシリウスさんになったんだね!
ひとつ謎が解けてすっきりはしたけれど、まだ分からない事は山積みだ。
「それにしても、父さんが『魔王の使い』ってどういう事? あの世界、確かに魔物はごろごろしていたけど、そんな魔王なんていうのもいるんだ?」
僕の認識では向こうの魔物はこちらの動物。その動物達の頂点に君臨するようなそんな者が存在するのだろうか? 確かにシロさんは魔物の中には言語を解するようなのもいるとは言っていたけど、そういう魔物が魔王なのかな?
「それは正直どうなのだろうな? だが、クロームがやった事で向こうの世界に多くの魔物が出現したのは間違いない」
「父さんがやったこと?」
「私を向こうの世界へと呼び寄せた事だよ」
僕は意味がうまく理解できなくて首を傾げた。
「どうやら『こちらの世界』と『向こうの世界』の間には『魔物の世界』というのが存在しているらしい。あちらとこちらを行き来するにはその魔物の世界を通らなければならないようでね、私が向こうの世界に呼ばれた時に、向こうの世界では大量の魔物が出現したらしいのだよ。それぞれの世界は基本的には干渉しない、けれどそれを歪めてしまえるのが向こうの世界の魔術でね、クロームはそれが出来てしまう獣人だったとそういう訳だ。私達はあちらとこちらを何度か行き来していたのだけれど、その都度向こうの魔物は増えていった、そして原因を究明しようとしていた者達にクロームは捕まり投獄された」
僕は何を言っていいのか分からない。確かに向こうの世界で魔物の増殖を促したのが父のとった行動のせいなのだとしたら、それはもう全く擁護ができない。
「でも、何度か行き来していたって言うのなら、こっちの世界にも魔物が出ても不思議じゃないんじゃないの? 僕はこっちの世界で魔物なんて見た事ない」
「魔物と魔術は割と密接した存在のようでね、向こうは魔法が普通に使える世界だ、誰しも皆が魔力を持っている、だから魔物が見えるのだけど、こっちの世界の人間は魔力がないから魔物が見えない。だから私にも魔物なんて見えないんだ」
それはなんと言えばいいのだろう? いわゆる霊感とかそういうもの?
「けれど、こちらでも異常は起こっている。未曾有の天災、そんな言葉をお前も何度か聞いた事があるだろう?」
「天災……地震とか、洪水とか?」
「そう、それ。それが魔物の仕業なのだそうよ」
「でも僕、今は魔物が見えるけど、元々そんなモノ見えなかったよ?」
「それはクロームが魔術でお前のその瞳を封じていたからだよ。この世界で魔物が見えて得することなんてありはしない。見えないことの方が普通だからね。それにこちらの世界は向こうの世界に比べれば圧倒的に魔物の数は少ない。クロームは向こうの世界にはどこかに穴でも開いているんじゃないかとそう言っていた」
「穴?」
「そう、魔物が向こうの世界に干渉できるような、そんな穴がどこかにある」
シロさんのお父さんのジロウさんは魔物出現の謎を追っているとシロさんは言っていた。それを調査しているのがガレリア調査団で、そんな調査団のジロウさんと父さんが顔見知りだった事にも何となく合点がいった。
「魔物……そうだ、魔物! 僕、向こうの世界で変な触手に絡めとられたはずなんだよ、なのになんでこっちの世界に戻って来てるの!? 僕、どうやって戻ってきたの!?」
「それもクロームの仕業だね。クロームは世界に歪みが出れば、どこでそれが起こっているかすぐに分かるようにしているらしい。あんたが魔物に喰われそうになっていたから、無理矢理こちらに連れて来たとそう言っていたよ。おかげでそれからクロームはずっと寝たきりで、詳しい事情も分かりゃしない。北斗と美鈴ちゃんが行方不明なのもその辺の事に絡んでいそうだから、詳しい話を聞きたいところなんだけど、きっとこれは当分起きないね……」
そう言って母はまたクロを撫でた。母の膝の上のクロはごろごろと喉を鳴らしていて、今は完全にただの猫なのだとそう思う。
「なんかもう、何を信じていいのか分からないよ……」
「まぁ、今まで何も教えてこなかったしね。言った所で理解も出来ないと思っていたし」
「それでも少しくらい教えておいてくれても良かったんじゃないの?」
「お前は自分の父親がこの猫だと言われて、それを素直に信じるのかい?」
「いや……それは……」
「実はお前の出身地は異世界で、獣人が支配するそんな世界でお前は生まれたなんて、そんな荒唐無稽な話、お前は信じたかい?」
言われてしまえば母の言う通りだ。この世界には獣人も半獣人も存在していない。そんな世界で自分が生まれただなんて、そんな事を言われても母さんの頭がおかしくなったと思うくらいで理解はできなかっただろう。
「お前達を産んだ事を後悔した事はないが、クロームとの出会いは私に困難ばかりを投げかける。クロームは本当に厄介事ばかりを持ち込む困った男だからな……」
「父さんと母さんは好きで結婚……はしてないんだっけ、えっと、そういう関係になったんじゃないの?」
僕の問いに母は少し困り顔だ。
「これをお前に言うのもどうかと思うけど、私はクロームをそこまで愛している訳ではないんだよ。なし崩し的に一緒にいるが、ことあいつに関しては、出会ったことを後悔する事がたびたびある」
「えぇ……」
「色気も愛想もないこの私が情熱的に愛を囁かれて、心揺れない訳がないだろう? それまでそんな経験は皆無で生きてきた人生だからね、だからうっかり絆された。向こうの世界の獣人にとって『人』は全員等しく生む者で、男女の性差もほぼあってないようなものだという事や、獣人は人の顔の判別がほぼできない上に美醜も特に気にしないのだと気付いた時には、すでにお前達が腹の中にいて、どうにもできなかった……」
ちょっと、それどうなの? 父さん酷くない!?
「それでもお前達を産めた事は私にとっては幸せなことだった、自分の人生で子宝に恵まれるだなんて絶対起こりえないと思っていたからね」
諦めたように苦笑する母、確かに母は化粧っ気がなく色気はないし、ものすごく美人だとは言わないけれど、別段そこまで不細工だとも思わない。言ってしまえば何処にでも居る普通のおばさんなのに、なんでここまで自分を卑下するのかよく分からない。
「子育ては大変だったが、お前達はとても可愛くて、そのまま向こうで暮らせていたら良かったのだけど、なにせクロームが捕まってしまったからね……」
母は大きく溜息を零して僕を見やる。
「クロームは私達をこちらの世界へと逃がし、自分は精神だけでこの世界へとやって来た。クロームの精神と肉体は離れていても繋がっている、どちらの生命も維持するためにクロームは莫大な魔力を消費しているみたいでね、こっちの世界ではほぼ役立たずだ。だから彼はこんななりで、我が家で飼い猫として暮らしているという訳だ」
クロの瞳がきらりと揺れた。それは何か物言いたげにも見えたのだけど、クロは別段喋り出すこともなく、母の膝の上で丸くなっている。
「まぁ、こちらの事情はそんな所だ。まだ何か聞きたい事があるかい?」
「まだたくさんある気がするんだけど、何から聞いていいのやら……」
「そうだね、私も同じだよ。何故今、昴と北斗の中身が入れ替わっているのか、北斗が今度は何処へ行ってしまったのか、私はそこをクロームに問い質したいのだけれど……」
やはりクロは黙して語らず、くわっと大きな欠伸をしてから、瞳を伏せて寝てしまった。
「父さん、どのくらいで起きそうなの?」
「少なく見積もっても2・3日は無理だろうね」
解決した問題も幾つかあるけど謎は増える一方で、僕はほとほと途方に暮れた。
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