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『お師さま、お師さま!』
図体ばかり大きなユキヒョウの子供が飛び跳ねている姿が宙に浮かんで、私の回りを飛び跳ねる。
「老師、これは……」
「わしの記憶の再現だ。これは幼い頃のクロームの姿、まだ年齢が二桁になったばかりの頃かの……」
ヨム老師はそう言って、愛しげに瞳を細めた。けれど、幼いと言われたそのユキヒョウの身体のサイズは既に私とそう大差はない。
「彼とわしとでは獣種が違う。わしは鳥の中でも長命で体格も比較的大きなヨウム族の出なのだが、さすがに元々大型種のユキヒョウ族出身の子供は成長速度が早くてな、この頃は本当に目が離せなかった」
そう言って、ヨム老師は語り続ける。
大昔、まだ魔物がこの世界に現れる以前、鳥類であるヨム老師と肉食獣である彼とは捕食関係にあったのだそうだ。けれど、魔物の跋扈するこの世界では獣人同士での食いつ食われつの関係は既に過去のものとなって久しい。
ヨム老師が生まれたばかりの頃には、まだ獣人同士の諍い、縄張り争いも絶えなかったのだが、獣人同士が争っていては現れた強大な敵『魔物』に対抗する事が出来ず、獣人達は『魔物』に対抗するためにお互いの縄張りを争わない不可侵条約を結び、手を取り合ったのだそうだ。
元来大型種である肉食獣は魔力がそう強くはなかった。それは魔力を使わずともこの世界で生きていかれたからだ。そして、小型獣はそんな大型獣に対抗する為に魔術の研鑽を積んでおり、魔術の扱いは小型獣の方が優れていると言われている。
そんな中で生まれたユキヒョウ族のクロームは大型種にしては類稀な魔力を擁して生まれた子供で、魔術をそこまで扱う事のできない両親はクロームを持て余し、その街で魔術を教えるヨム老師に彼を押し付けたのだと、老師は言った。
『この子は私共の手には負えない、どうぞお好きなように育ててください』と、クロームを老師へと押し付け、両親は逃げるように帰っていった。そんな両親に追いすがるように泣くユキヒョウの子供、それに合わせるように部屋の中は嵐のようにぐちゃぐちゃに物は飛び交い、大変な事になっていく。
『坊や、坊や、泣かないで』
そんな言葉と共に宙に子供を抱きあげる、ほっそりとした腕が映し出される。その腕の持ち主は、とても綺麗な『人』だった。
「老師、この方は?」
「わしの最初の妻、トキじゃよ。種が悪いのか畑が悪いのか、わしとトキの間には子ができずにいたので、トキはクロームを我が子のように可愛がって育てていった。そんなトキに心を開いたクロームもいつしか我が家に馴染むように、わし等は家族になったのだ」
だが、見た目の獣種はいかんともしがたく、家族を名乗ろうにもそれができなかった老師達はクロームを名目上、弟子として暮らしていたのだが、実質は我が子同然にクロームを育てていたのだと老師は続ける。
穏やかで幸せな家族の思い出が次々と宙に映し出されていく。けれど、続いた映像はベッドに横たわる老師の妻、トキの姿。
「そんな幸せな時は長くは続かない。人であるトキの寿命は短く、クロームが50を過ぎる頃、トキはその短い命の灯火を消してしまった」
横たわるトキさんの姿に涙を零すクロームの姿は見ているだけで痛々しい。
『お師さま、何故「人」は僕達と同じ時を生きられないのですか?』
『それが世界の摂理であるからの、致し方あるまい……』
『お師さまは悲しくはないのですか!? 僕はトキさまがいなくなって悲しくて悲しくて胸が潰れてしまいそうです!』
『わしも悲しいのは同じだよ。ただわしは長く生きている分、お前より悲しみとの付き合い方が上手なだけだ』
瞳いっぱいに涙を浮かべたクロームは、身体は大きくとも、やはりまだ幼く見えて、こちらまで泣いてしまいそうだ。獣人にとって、最初に直面する『死』は生きる長さの違う母との死別がほとんどで、そこはもう避けては通れない道だ。
私自身もクロームとそう大差のない歳で母を亡くしているので、その思いは痛いほど理解ができる。
『こんな悲しい思いをするのなら、僕は一生、番は持たない! こんな思いを何度もするなんて、僕には耐えられない……』
『けれどクローム、1人で生きていくにはこの生はとても長い。別れることはとても辛いが、孤独もまた同じように辛いものなのだよ』
『ですが、お師さま……一度知ってしまった幸せを手離すのはとても辛い、だったら最初から、何も知らない方がまだマシだった!』
母のように慕っていたのであろうトキさんの遺体に縋るようにクロームは泣いており、胸が痛む。噂に聞いていた極悪人クロームの姿はそこにはなく、そこには母と死別し、嘆き悲しむ哀れな子供の姿が映し出されていた。
「この日からクロームは周りには目もくれなくなり、研究一筋、魔術の研鑽を積んでいくようになった」
次々移り変わっていく映像、老師と共に魔術の研究をしているのであろう画面が移り変わっていく、そしていつしかその姿は立派な成人した獣人の姿へと変わっていく。
「トキが死んだ頃には既に魔導師だったクロームが、賢者の免状を手に入れたのはクロームの年齢が3桁に差しかかろうという頃。それは破格のスピードで、クロームは最年少の賢者となった……」
獣人の成長はとても早い、けれどそれは身体の成長が早いというだけで精神の成長はゆるゆるとその長い寿命と共に成長していく。私の年齢は現在238歳、一般的にはまだ子供扱いをされる事もある若造だ、それを思えば100歳そこそこで魔術師の上位クラスである『賢者』の免状を手に入れたクロームの才能は群を抜いていたのだとはっきり分かる。
「その頃には既にクロームはあらゆる魔術をいとも容易く操るようになっていた。類稀な魔力量を持ち、精霊に愛され、そしてセンスの良さも群を抜いていたからの。歳もまだ若く柔軟で、そんな事は不可能だと思われる魔法陣の生成も容易くやってのけておった。誰もが皆クロームの才能に憧れ、嫉妬した。それはわしも同様にな」
「え……?」
「わしもまだ、あの頃は欲のある者であった。もちろん出世欲も人一倍でな、自分も賢者になったばかりであったのに、容易くわしに追い付いてきたクロームに、少しばかり臍を噛んでいたのだよ。トキが生きておればそんなわしを諌めもしたのであろうが、その頃はわしとクローム2人だけの生活で、そこにあったのは父子の関係ではなく、いつしかそれはライバル同士の戦いになっておった……いや、そう思っていたのは恐らく一方的にわしの方だけで、クロームは単純にわしに遊んでもらっていると思っていたのかも知れんがの……」
老師は昔から老人で、そんな姿をまるで想像もできない私は老師を見やる。そして同時に疑問に思うのはクロームの年齢だ。老師は私の祖父が幼い頃から既に老師だったと聞いている、そんな老師がまだ自分も若かったと言うくらいの年齢から生きているクロームの年齢は一体幾つだ? 恐らくうちの父親より年上なのは間違いない。
「若くして賢者になったクロームだったが、そんなクロームの才能を中央の官吏は放っておかなかった」
「中央……」
中央都市(セントラルシティ)はこの世界の中心だ。この世界のルールは全て中央の官吏が決めており、その権力には誰も逆らえない。逆に言えば中央である程度の役職に就きさえすればその後の人生は一生安泰だと言ってもいい。だから皆、悠々とした生活を求めて、己の力を高め免状を習得し中央を目指すのだ。けれど、クロームは自ら目指した訳ではなく、中央の側から目をかけられたという事か……?
「わし等獣人の寿命は長い、だから誰も気付いておらんのか、気付かぬふりをしているのか、この世界の住人の子供の出生率は非常に低い。獣人は長く生きるので減っているようには感じないかもしれないが、それでも緩慢に子供の数は減っている」
言われてしまえばその通りかもしれない、私の生まれ育った町でも弟分のロウヤの下には子供は生まれておらず、私と同世代といえば、この間一緒に戦った若衆と呼ばれる彼等だけ。だが、逆に考えればあまり数が増え続ければ寿命が長い分、人口が増えて食糧難などの問題も出てくるのではないだろうか?
「中央の官吏はそれに危機感を持って、優秀な者には積極的に子作りをするように働きかけている。いわゆる番の斡旋じゃの。クロームは若く優秀であったからこそ余計にその要求は執拗だった」
「……別に子供の数を増やしたいだけなのであれば、今の子作り制度を廃止すれば言いだけなのでは? 子や妻を欲していても、一定数の免状を手に入れなければ番を探しに行くこともできないこの現状が、そんな結果を招いているだけだと私は思うのですが……」
「ここにある研究資料がある……」
ぱっと宙に浮かび上がる、図形に私は目を凝らす。
「わしは子供の数が減っているとは言ったが、全体で見れば多少の減少を見せているがそれ程ではない、ただ顕著に減っているのがここ」
ヨム老師が翼を広げ指し示すのは高い免状を取得しているいわゆる階級的に上の者達の出生率で、不思議と何故か、ある頃を境にそこだけがくんと出生率が落ちている。
「これは……何かあるのですか?」
「獣人は年齢を重ねても子作りは可能だが、ここまで出世するにはやはりある程度の年月を要する、この結果を見るに歳を重ねれば重ねただけ子供を作るのは難しくなるのであろうな。世界の仕組みがそうなっているのだから致し方のない部分もあるのだが、中央の官吏はより優秀な人材を集める為にこのルールを変えようとはしない。同時に長命な獣人はなかなか死ぬこともないでな、上の者達はいわば既に生きた化石、わしも含めそんな元気もありはしないというのに、中央は若者の自由恋愛を禁じておって子が減るのは当然の帰結であるとわしは思う」
「ですが、それは『人』の寿命が短く、数も少ないので仕方のない処置なのでは?」
「確かにそれもその通り。だが、人の側とて感情はある、子作りの為だけに番になった所で愛情がなければそこに子はできはせん。その点お前の暮らしていた狼の集落はうまい事やっておるなとわしは常々思っておった。嫁いですぐに子ができるよう仕向ける仕組みが構築されておるからのう。獣人は自分が長い生を生きるので、同じ感覚で番相手の心が開けるのを待ってしまう。だが、それでは短い寿命の『人』の一生はあっという間に終わってしまう、獣人はその辺を分かっていない者が多すぎる。そしてそんな事に気付くのは2人目、3人目の番を持った頃で、その頃には己が年齢を重ねすぎてなかなか子作りに邁進できなくなってしまう。ただでさえ番との死別は辛く、そんなに何人も番を持とうと思えない者も多いであろうに、これでは少子化に歯止めが効かぬのも道理というもの」
確かにうちの父親も番はもういらぬと言って、自分の仕事に精を出しているのだからそれはあながち間違っていない。言われてしまえば、この世界の仕組みはどこか歪んでいるのかもしれない。
「優秀な者は子を成す義務がある、中央の考え方は一貫しておる。だが、クロームはそれを頑なに拒否し続けた。そんな時にやって来たのがわしの2番目の妻、キリルじゃった」
次に宙に映し出されたのは、一番目のトキさんより少し気の強そうな顔立ちの、やはり美しい『人』だった。
「わしも妻はもうトキだけで充分だと思っていたのだが、わしとトキの間には結局子はできなんだ、番を持てる資格のある者が番を持ったら最低一人は子を成さねばならない。だが、わしはそれを果たせていない。クローム程には執拗ではなかったが、わしにも新しい番を持てという督促はきていてな、わしは中央の官吏に言われるがまま、宛がわれるように2番目の妻を娶ったのだよ。だが、このキリルはちょっとした曲者でな……」
そう言ってヨム老師は溜息を零す。
「名目上わしの妻として迎え入れられたキリルだったのだが、その実目当ては歳若いクロームの方で、キリルは隙あらばクロームとの子を作ろうと散々にクロームに色目を使っておった。それはキリルの意思だったのか、官吏に唆された結果だったのか、わしにもよく分からないのだが、そんな攻防に辟易したクロームはついに我が家を出てしまった。正直な話、わしの妻として嫁いできたにも関わらず息子同然のクロームに色目を使うキリルにも思うところはあったし、そんなわしの妻をそれと知らず誑かしているクロームにも思うところはあって、クロームが家を出ると言った時にはわし自身少し安堵する部分もあったのだよ……クロームが家を出てしばらく後に、それでもなんとかわしとキリルの間に子ができてな、それからはその子の成長を見守るのに忙しく、クロームとはそれ以降あまり交流を持たなくなった。言うてもクロームも既に一人立ちの年齢を超えておったでな、当然の事であったのかもしれないが」
「老師にはお子さんがいらしたのですね……」
私の言葉に瞳を伏せて「もう死んで久しいがな……」と、老師は言った。
「亡くなっているのですか?」
「獣人の寿命が長いとは言え、死は平等に訪れる。それは自然の摂理で抗えぬ、抗ってはならないのだ……だが、クロームはそんな自然の摂理に異議を唱えた。シロウや、お主はわしをいくつだと思う?」
「え……っと、5000は超えているかと思うのですが」
「わしの年齢はとうに1万を超えておる、正確な年齢はもう自分でも分かりはせん。わしは死ねないのだよ、そのような身体に変えられてしまった」
「どういう事ですか?」
「不老不死、とでも言えばいいのかの……わしはこの年齢から歳を取らなくなった。身体が老化を止めておる、これは恐らくクロームの仕業で間違いない。子が死に、孫が死んでもわしは死ぬ事ができぬ、これは存外辛い事でな、クロームには何故こんな事をと問うたこともあるのだが『お師さまは僕が死ぬまで死んでは駄目だよ』と埒も明かぬ。これはクロームなりのわしに対する愛情表現なのかもしれないが、わしはそんなクロームが理解できずに袂を別ってしまったのだよ」
なんと言うか言葉も出ない。話を聞いていても、クロームの人となりが理解できない。
「生命とは命を繋いで歴史を紡いでいくもので、こんな事は間違っている。クロームはそれを理解せん。それ程にトキとの別れがクロームにとっては辛かったのかもしれぬがな。けれどそんな困った性格のクロームだが、魔王の手下と呼ばれなければならぬような性格はしておらぬ。クロームは妻を娶る事もなく、更に魔術の研鑽を積み、いつしか大賢者と呼ばれるまでとなった、だがその中身は昔から変わらぬ子供のままだ」
「それは老師が知らないだけでは? 子は親の知らぬ間に成長するものですよ?」
「…………」
老師はしばし眼を瞑り「そうであればいいのだが……」と、呟いた。
「袂を別った後にもクロームは一方的にわしに便りを寄越し続けた。それはクロームのあの大事件が起こる直前まで。最後の便りがこれなのじゃが……」
宙に浮かぶのは小さな獣人? 真っ黒なその生き物は衣服を何も身に付けず四足歩行で歩いている。そしてそれに被さるように現れた大きな獣人はその小さな生き物を抱き上げた。
『お師さま、大発見です! この獣、実は獣人ではないのです、ましてや魔物でもない、未知の生き物ですよ! 何処で見付けたと思いますか!? いやいや、これはまだ内緒です、間もなくこの世界は大きく変わる、お師さま、見ていて! 僕はこの世界の仕組みを必ず変えてみせるから!』
無邪気な笑顔の大賢者クローム、それは幼い頃の映像と大差はなく、変わったのはその大きく育った体躯と、身なりが少しだけ。これが、直近の大賢者クロームの姿……? 若い、どう見ても自分達とさほど年齢が違って見えない。大賢者と呼ばれるからにはもっと落ち着いた老齢の獣人を想像していたのにイメージが違いすぎる……
「これはいつ頃の……?」
「事件の前であるから20年程前かのう」
スバルとシリウスの年齢が共に17歳、とすると彼等が生まれる少し前か。これが大賢者クローム……私はその姿を脳裏に焼き付けた。
「わしの知っているクロームは、ずっと幼い子供のまま。わしはそれ以上にクロームの事は知りはせん。ましてや魔王の手下などと、信じられる訳もない」
「確かにこの姿を見ているだけでは、私にもこの方が世界を滅ぼそうと企んでいた悪党にはとても見えない」
「だが、見えているものだけがこやつの全てではなし、現在は中央で厳重な監視の下眠りにつかされ幽閉されていると聞く。クロームの操る魔術は誰にも真似ができぬ、だからこそ特別で誰もクロームの代わりにはなれない。それが分かっているからクロームは殺されもせずに生かされ続ける。アレも哀れな者なのだよ」
ヨム老師は瞳を伏せ、溜息を零す。
「老人の話しはこんなものじゃ、何か役に立つ情報はあったかの?」
「はい、ありがとうございます」
私が頭を下げると、ヨム老師は「これを持っていけ」と、私に小さな水晶を手渡した。
「これは遥か昔クロームが使っていた水晶でな、クロームの魔術との相性がいい。何かの役に立つこともあるやもしれん」
その水晶を受け取って私はもう一度頭を下げた。
「お主はこれからどうするつもりだ?」
「もちろんスバルを探します。ですがその前に父に会って大賢者との関係を問いただすつもりです。きっとその辺にスバルを探しだす手がかりがあると私は考えております」
「ふむ、そうか……だがシロウや、あの小僧っ子が真実クロームの子であるのなら、少し厄介な事になるかも知れぬぞ?」
「それも覚悟の上です。私はこの尾にかけてスバルに終生の愛を誓ったのです、多少の困難など乗り越えられずして、スバルの伴侶は名乗れません」
「ふふ、若いのう……よし、仕度が整い次第またわしの所に来るが良い、今回は特別じゃ、転移魔法で遺跡まで送り届けてやろう」
「本当ですか! ありがとうございます!!」
三度頭を下げて、私は部屋を出た。善は急げ、早急に準備を整え魔大陸イグシードに渡るのだ。躊躇っている暇はない。
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