一、つくな

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一、つくな

 とても暗く深い闇、そのようなものが広がっていた。  空間と呼んで良いのか、次元とすら呼べるのかわからない、そんなところ。  何もなく、何も見ることもできず、何も感じることもない、そんな中に微かになにかが生まれつつあった。  幻聴にも近い声のようなものが、まるでなにかに語りかけるかのように、その闇に響いている。  儚いようでありながらも、強い意思を帯びたその思いを、生まれたてのなにかは感じていた。  微かに芽生え始めた意識は、おのれを呼ぶその声のようなものを感じ取ることにより感情が生まれ、自我の確立を促し、その声の主の思いを受け止めていた。 (……だ……れ…………?…………)  生まれつつあるその何かは、脳裏と呼んで良いのかわからないそんな中に、言葉のようなものが芽生え始め、おのれを呼ぶ者に訴えるようにその思いをひねり出し、問いかけていた。 (……わたしは、ツクナ……)  その世界の向こう側から、生まれつつある何かへと思いを抱いていた者は、自分に向けたられた声のようなものを感じ、自然とそう応えた。 (ツ、ク、ナ……?)  深い闇の世界より返されたその思いを受け取った、世界の向こう側にいたその者は、突如として訪れた一筋の光に呑み込まれ、意識がそこから遠のいていった。 (夢……?)  月凪(つくな)は手の甲を額に乗せると、重い瞼を上げ、目を覚ましていた。  このところ似たような夢を見る事が度々あったのだが、先ほど見たものはこれまでのものとは異なるものだった。  今まではただ闇の中を漂っているような感覚で、そこに微かな暖かみと温もりのようなものが感じられる程度であり、それが何であるのかを知り得ることは出来なかった。  そのため目覚めた時に不思議な思いに囚われるような事はあっても、とくに気に留めるような事もなく、忘れてしまう事も少なく無かったほどである。  だが今見たものはその暖かさのなかに、いままでにはない人の意思のようなものを感じ、問いかけられ、それに応じるように自分の思いを投げかけることとなっていたのである。 (なんだろう、この気持ち……)  なんとも言え無い感覚が残るその心には、切なさのなかに愛おしさが入り混じる、複雑な感情が内側より溢れくるようであった。  そんなことを感じながら、藁で出来ただけの粗末な(むしろ)の寝床より起き上がった月凪は、傍らにある紐を掴むと足を建物の外へと向けた。  竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)と呼ばれる建物は薄暗く、明かりが入りにくい作りであるために、外に出ることで始めて空が白みがかり朝を迎えつつあることを認識することができた。  うっすらと明るくなりつつあるもまだ薄暗い空の下、歩き始めた月凪は、長く黒い髪を両手で束ねるようにかきあげると、それを左手で掴みとり、口にくわえていた紐をもう一方の手で取りあげ、それを使って髪を後ろで束ねあげた。  麻で出来た簡素な貫頭衣(かんとうい)をはおり腰で縛っただけの服装で、まだ幼さの残る娘であったが、その仕草には大人びた雰囲気を醸し出していた。  冬の終わりを迎えつつある季節柄、肌寒さを感じた月凪は、指先をこすりつつ息を吹きかけながら薄暗い道を、慣れた足取りで足早に歩みを進め、何かに誘われるかのようにたどり着いたのは、一本の若木の下であった。 「もうすぐ春だね……」  少し息を荒げながら根元を見つめた月凪は、息を整えながらそう呟くと、顔にかかる前髪をかきあげながら頭を上げ、目の前にある桜の木を見上げた。  自分の数倍の高さでありながらも、まだ幹も枝も小ぶりの木を見つめる月凪の眼差しは、幼い妹を見る優しい姉のようなものであった。  数年前よりこの桜の木を見つめ続ける幼い娘、月凪の姿がそこにあった。  まだ歩き始めたばかりの幼少のころより母に連れられて、桜の苗木を見ていた月凪には、小さな幼子のように思えていたのである。  植えられた苗木は自分より小さなもので、それを見つめる月凪には妹のような感覚を覚え、愛おしい存在となっていた。 「今年も花、咲きそうにないね……」  いつの間にか傍に母、彩嶺(あやね)の姿があり、語りかけられていた。  この木がここに植えられたのは五年前のことで、月凪の母と祖母が移植したものであった。  元々山桜が群生していたのだが、山火事が発生したことで一度絶滅してしまい、その焼け跡を調査していた母が、新たに生まれていた桜の若芽を見つけ、祖母の知識を借りてこの地に移植していたのである。 「母さま、この子もいつか花を咲かせてくれるかな」 「綺麗な花を咲かせてくれるわよ、きっと」  少し寂しげに返した月凪に母は頭を優しく撫で、優しくも力強く応えていた。  桜の木はこの辺りでは他になく、この木は最後の生き残りであった。  そのため山火事以降、桜の花を見たことのある者はおらず、幼い月凪は桜の花がどういう物であるのかを知る術はなかった。 「戻ったらあさげの準備を手伝ってもらうわね、今日はお婆様とヒナノはお祈りがあるから、私とツクナで作るわよ」  花に思いを馳せて桜を見上げていると、そこに覗き込んで見下ろすようにしながら少し含みのある笑顔を見せた母に対し、憂鬱な感じに顔を曇らせた。 「母さま、私料理苦手……」 「そうね、味付け以外は完璧なのに、ツクナは味覚音痴だから」 「音痴って酷い……」  母はそう言ってくすりと笑うと踵を返して歩き出し、月凪は不満げに頬を膨らませながらも、母の後ろに付いて歩みを進めようと振り返ったのだが、違和感に足を止めた。 (何だろうこれ……)  視線のようなものを感じていた。  それは嫌な感じのする様なものではなく、暖かみすら感じられるものだった。  気配を追うように向き直り桜の木へと視線を向けた時、地平線の彼方より大地を照らす日の光が顔を出し、それが目に映ることでその眩しさに月凪は目を細めた。  次の瞬間、春を告げるような一筋の風が吹き抜け、それを避けるように顔を背けると、視界の端に幼女の姿が一瞬映った気がした。  再び桜へ視線を戻そうと試みるも、風が目に入り込むことにより流れ出た涙で視界が滲み、確認する事が出来なかった。 「春風かしら、今日は暖かくなりそうね」  歩みを止めて空を仰ぎつつそう言った母の後ろで、うっすら濡れた瞳をぬぐいながら桜を見つめかえしたが、そこにはすでに何もなく吹き抜ける風になびく草木があるだけであった。  月凪の後方、遥か西側にそびえる山脈は陽の光を受け、残雪の(いろど)るその姿は人類の侵入を拒む(きび)しさと、それにともなう神秘な情景をひろげていた。  後ろ髪を引かれる思いを振り切って、母の元へ小走りで駆け寄った月凪が去った後、桜の木の下に黒い小さな影がうっすらと霧がかるようにあったのだが、この時それに気づくことはなかった。
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