一、つくな

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「凄い、川があんなに小さく見える……」  肌寒さを感じ少し身震いした月凪(つくな)は、遠く彼方まで広がる平野を目の当たりにして、その壮大な景色に感嘆の声をあげた。  陽が南に差し掛かる頃一団がたどり着いたのは、山裾から中腹にかけて広がる森の中、視界が開けた岩場であった。  そこに住居となる洞穴があり、水場が少々離れているものの視界が広いため森全体を把握しやすく、状況を知るには良い環境なのである。  月凪は視線を上空に移し仰ぎ見ると、遥か雲の上まで(そび)え立つ山が目に入り、山頂を望むことの叶わぬ規模の大きさに圧倒された。 「この山は山棲族の方々が昔から信仰している、神様が住まう山なのよ」  目を凝らし見えない山頂をなんとか垣間見ようとしていると、隣に歩み寄った母、彩嶺(あやね)がその心を読み取るかのように声をかけ、それに「そうなんだ」と呟くように声を漏らした。 「毎年の事ながら今年も派手にやられたな、今回は強化したんだが焼け石に水だなこりゃ」  洞穴の前で様子を伺っていたヌイタシロは、肩を竦めながらため息をつき、入り口にある木製の柵に手をかけると、それを取り外しに掛かった。  山頂を眺めていた月凪は作業を始めたことに気づき、少し距離を置いた場所で様子を見ていた父、幸岳(ゆきたけ)のそばに駆け寄って衣服を引っ張ると「なにしてるの」と尋ねた。 「ああ、あれは彼らの住居なんだが冬の間に毎回荒らされるんだ、だから柵を設けていているんだがぼろぼろにされちまってるな」  少し楽しげな表情を浮かべながらそう応え娘の頭を撫でると、やれやれといった様子で柵の方へと歩みを進めた。  冬の間、寒さをしのぐためにこの洞穴に獣が出入りしてくる為、木枠を設けて入れないようにするのだが、毎年のように破壊されてしまうのである。  父の話に興味深そうに月凪も近づこうとした時、洞穴の中に何かが潜んでいたようでその柵の隙間から、まるで何かに襲いかかるかのような勢いで大きな獣が飛び出していた。 「危ない伏せろ!」  父はそう叫ぶと振り向き娘を庇おうとするも、距離が離れていたため間に合わないことに舌打ちし奥歯を噛み締めたが、それをいち早く察知した母が素早い動きで娘の体を抱きかかえると、そのまま地面に伏せ、月凪は母の胸の中できつく目を閉じた。 「キサクンネじゃないか、元気だったか!」  緊張感のない明るいクアイの声に一同安堵し、母はとっさに引き抜いていた短刀を娘に見えないようにしまい込むと、一瞬曇らせていた表情をすぐに戻し「よかった……」と呟いた。  すぐさま起き上がった母は、娘を後ろから抱き上げると自分の前に立たせ、心を落ち着かせるように深呼吸をして娘の頬を軽く撫でた。 「すごく大きな狼だけど大丈夫なの?」  母の体にぎゅっとしがみついて警戒心を保ちながらそう訊く視線の先には、一際大きな狼とじゃれあい楽しそうにするクアイの姿があり、不思議そうに小首を傾げた。 「ええ、山に住んでいる山棲の方達は狼さんとお友達なのよ」  その言葉に警戒心を解き、「へぇ〜」と口にしながら母から離れて、興味深げに少し近くに歩み寄っていた。  狼はかなり大きな距離を縄張りとして行動するのだが、昔から同じ領域を生活圏と狩猟に使っている山棲族とは仲間意識があり、共に過ごし、時には狩りを助け合ったり、食料を分け合うような仲なのである。  安心して無防備になっていた月凪に気づいたキサクンネは、獲物を狙うように目を光らせると、嬉しさを爆発させて飛びかかっていた。 「うぇぁ、た、助けてぇとうさま、かぁさまぁ!」    上にのしかかられる格好で押し倒され、身動きできなくなった月凪は表情を引き攣らせ助けを求めたが、周りの人々はその様子をただ傍観するように談笑するだけで、助けようとする者はいなかった。 「ちょっ、やだ、やめて、やめてぇ!」  叫ぶも誰も助けてくれない事に絶望感を抱いていたが、キサクンネは嬉しそうに尻尾を振り月凪の顔を舐めまわし、その姿がみんなにはおかしくて仕方ないようで、腹を抱えて笑っている者もいるほどであった。 「よほど気に入られたみたいだね。なぁにとって食われるわけじゃないから、安心しな」  少し笑いを堪えるようにフレラがそう言ったが、恐怖に怯える月凪の耳には届いておらず、もがいて逃げようとするも全く動くことが出来ないことに涙が溢れはじめ、その目は生気が感じられないほどの失望感が漂っていた。 「キサクンネ、もうやめてやれ怖がられてる、お気に入りに逃げられるぞ」  始めは皆と同じように傍観していたクアイだが、月凪の様子を不憫に思いそう言って制すると、くぅんと寂しげな鳴き声をあげるとしょぼくれた感じに尾を下げ、ゆっくりと月凪から離れる様に移動した。  そのことで助かった安堵感とまだ微かに残る恐怖の複雑な思いのなか、散々なめまわされ唾液でべたべたの状態のまま一瞬放心状態になると、次の瞬間感情が噴き出すように泣き叫び、その場に座り込んでしまっていた。 「ちょっとやりすぎたかな……」 「そうですね、ちょっとかわいそうでしたね」  いつしか泣き疲れた月凪は父の腕の中で眠っていた。  父の呟きに、そう答えた母はふたりしてお互いを見合い苦笑した。  周りの人々も月凪の姿に同じように少し反省していたが、とりあえずは目の前の事に取り掛かる事にした。 「しかし相変わらず派手に荒らされているな」  木枠を全て取り払った頃、中に入ったヌイタシロは案の定荒らされていた状況にため息をついた。 「想定どおりですね、ゆうげ前までには整理させないといけませんね」  ヌイタシロの弟嫁レタチカはその言葉に、軽く目を伏せため息まじりにそう口にすると、一本の細い棒を取り出しそれに簡単な祝詞を唱えると、それを使って長い髪を束ねた。  同じようにフレラと母、彩嶺も続くと眠っている月凪の頭にも母は同じ様にして髪を束ねて棒をさし、軽く整えた寝床にむしろをひいてそこに横たわらせた。  細い棒には呪力があるとされており、それを髪に挿すことで穢れを払うと考えられ、この住居が神聖視されているのと同時に穢れを持ち込まないという思いも込められているのである。 「では俺たちは狩りに行ってくるゆえ、後は頼む」 「ええ、戻ってくるまでにはゆうげを用意しておきますね」  ヌイタシロの弟であるトノトカがそう告げると、その言葉に嫁のレタチカが荷物から四人分の弓矢を取り出し、それをヌイタシロと息子のメアンマタに手渡すと優しい笑みを浮かべそう応えた。  彩嶺も同じように幸岳と颯樹(そうじゅ)に弓矢を手渡すと、女達は男達に手を振って見送り、それに答えるように男達も手を振り返して山の中へと入っていった。  男達を見送った女性達は、洞穴の住居の片付けをするべく中へ入り散乱している草木を手早く片付けた。  ひどく荒らされている感じではあったものの、これといって荷物が置いてあるわけではなかったために炉だけを確保すれば、男達が運んできた生活用品一式を配置して、思いの外あっさりと整理されていた。  片付けが一通り終わるとそのまま夕食の準備へと移行し、その頃には月凪が目を覚ましていた。  寝ぼけ(まなこ)(ほう)けた顔をしていたが、ふと眠る前の事を思い出し、一瞬びくっと身震いすると、周りを見渡し狼がいない事を確認してほっとしたように表情を緩めた。 「あらツクナ起きたのね、片付けは終わったからゆうげのお手伝いをしてくれる?」  母の言葉にきょとんとした顔でこくりと頷くと、周りを見渡して女性しかいない事に気付いていた。 「父さまたちはどうしたの?」 「狩りに行ってるわ、戻ってくるまでに終わらせましょう」  月凪はその言葉に起き上がると、母の隣につき手伝いに入ったもののまだ気持ちが落ち着かず上の空だった。 (もうやだ、恥ずかしい事と怖い事ばっかり……)  朝から続いた事を思い出した月凪の心は、本人が思う以上に疲弊しており、動かす手が時折不穏な動きを見せていた。  夕食の準備は例によって月凪は下準備だけで、味付けは母が行う ——はずだった……。 「ツ、ツクナ……!」  母が普段見せることのないような狼狽した青い顔で絶句し、娘の名を辛うじてひねり出すと月凪の心を引き戻すかのように強く揺さぶっていた。 「かあ、さま?」  その事で気がついた月凪は、母の様子に小首を傾げたが尋常ではないその表情に状況を把握し、みるみるうちに青ざめ動揺したその手が震えていた。  それは母がほんの一瞬目を離した時だった、月凪は自分をわきまえているためここ最近は料理の仕上げをする事はなかったのだが、今日はあまりに考える事が多く上の空で料理をしていたうえに、疲れも溜まっていたため本人も気付かない間に味付けに手を出してしまっていたのである。 「気にし無くていいわ、わざとじゃないものね」  母以上に顔を青くして今にも泣き出しそうになってしまっている月凪に、現状を把握しあまりにかわいそうに思ったレタチカは、なだめるように声をかけ目線を合わせるように座り込んで微笑みながら頭をなでていた。 「ごめんなさい、おばさま……私そんなつもりは……」  優しくされたことが月凪にはなおさら心苦しくなってしまい、目線を逸らすように俯くと、我慢しようとしていた涙が溢れだしてしまっていた。 「そんなに思いつめ無くてもいいのよ、料理が一つダメになっただけなんだから」 「でも、今日は食べものがほとんど無いから……」  移住初日で最低限の荷物しか持ってきておらず、生活用品が主であったため食材は一日分しか持ってきてい無いのだ。月凪が駄目にしたのが穀物以外の主食であったため、主菜が無くなったに等しいのである。  フレラはこういうのが苦手なために無言で頭を掻くと、あえて声をかけないようにその場を離れた。  自分のせいで貴重な食料が無くなってしまい、自責の念で押しつぶされるように泣き崩れてしまった月凪のそんな姿に同情を抱きながらも、皆はそれを微笑ましくも感じていた。
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