二、さくら

1/5
41人が本棚に入れています
本棚に追加
/22ページ

二、さくら

  a86994cb-e666-47db-8ff3-797983b8c5f8  春の暖かさが柔らかく大地を包み込み、温もり広がる季節を迎えた頃、次の一歩を踏み出すべく新たな始点へと降り立った月凪(つくな)は、生まれ行く風を一身に受けて目を細めていた。 (わたし、頑張るから、あなたもいつか花を咲かせてね)  まだ日が昇るには少し早い頃、うっすらと明るくなりつつある空の下、社殿へ向かう道すがら、桜の木を見つめ心の中でそう語りかけると、通り抜ける風に髪をなびかせながら微笑んだ。 (この前のは、いったい何だったんだろう……)  山棲(さんせい)族との出会いや巫女の修行に明け暮れる日々で、それまでの日常とは離れた生活を過ごしていた為に、冬の終わりに見た夢と桜の木であったことを忘れていたのだが、今日という日を迎える中で思い出し、この場所へと足を運んだのであった。  あの時はまるで誘われるようにここを訪れ、何か思いにも似た視線を感じていたのを鮮明に思い出し、少し遠い目をしながら桜の木を見つめ返していた。 「また桜を見ているのね。ツクナにとっては妹のようなものなのかしら、幼い頃からずっと一緒だものね」  遅れて家を出た姉の日奈乃(ひなの)は、社殿へと向かう道すがら通りかかった桜の木で妹を見かけ、その傍へと歩み寄っていた。  遠い目をしながら笑みを浮かべ語りかけた姉の言葉に振り返り、月凪はこくりと頷くと少し不満げな顔で姉に膨れっ面を見せた。 「姉さまは、妹がいていいなぁ、私も欲しかったよ。わがままは言っちゃ駄目だから母さまには言えないけど……」 「ツクナはとても可愛い妹だもの、私はツクナでなければどんな妹でも嬉しくないわ」  そう口にした姉の目は少し遠い世界を見るようで、それに月凪は少し嬉しそうな顔を浮かべながら恥ずかしそうにしたが桜に目を移すと、少し思案するような顔をした。 「姉さまは、桜の花を見た事がある?」 「桜?」  ふいにそう問いかけられた、姉は少し思案するように小首を傾げ、それに月凪はこくりと頷いた。 「そうね、はっきりとは覚えていないのだけど、ツクナよりずっと小さな頃に見たような気がするわ」  姉はそう口にすると、少し申し訳なさそうな顔を月凪に向けた。 「そっかぁ……、あのね姉さま、桜さんに私も頑張るから綺麗な花を咲かせてねって言ってたの。桜さんが花を咲かせてくれたら、今度は姉さまも忘れられない思い出になったらいいな」  そう言って微笑みかけた月凪に姉は目を輝かせると、その身体を抱きしめた。 「姉さまはツクナさえいればなんだって忘れられない大切な思い出よ、ツクナが転びかけて掴まれた私が川に落ちて何日も高熱を出した事も、ツクナが落とした蜂の巣が私の上に落ちて蜂まみれにされて寝込んだ事だっていい思い出だから」  日奈乃が嬉しそうに語ったが、月凪は記憶にないその言葉に顔を青くした。 「えっ、ね、姉さま、ご、ごめんなさい!」  その言葉にますます目を輝かせた日奈乃は、月凪を抱きしめる腕に力がこもり首をふった。 「ツクナが悪いんじゃないのよ、そこにいた私が悪いのよ、ツクナを悲しませるなんて、私はなんておろかで罪深いのかしら」  日奈乃は月凪を見つめながら表情を崩すと、その目は別世界にいるようで心ここにあらずといった感じであった。 「ああ、ツクナは私なんかの為にこんなに心配してくれるなんて、もうツクナさえいればなにもいらないわ」 「姉さま、大丈夫?」  そんな様子の姉に心配というよりは不安げな表情を浮かべながらも、諦めた目をむけていた。 (ああ、姉さまはまた……なんで私といる時だけこうなんだろう……)  などと考えるとため息をつき、もうどこを見ているのか分からない姉に撫でられながらそんな様子を見つめていた。 「ああ、ごめんなさいツクナ、またついうっかり、いけないわね。変な姉でごめんね」  少しの間を置いて、ようやく我に返った日奈乃はいつもの姉だった。 「私も姉さま大好きだよ」  姉の言葉に首を振り満面の笑みを向けながらそう口にした月凪に姉は、足がふらつく思いを必死にこらえながら手を離すと、あくまで平静を装った。  そんな姉を見ながらも月凪はその心情には気づいておらず、これから社殿で行うことを胸に抱くと表情を強張らせながら、胸元で手をきつく握りしめると、気持ちを落ち着かせるように深呼吸をした。 「桜さんが花を咲かせられるように、神様への奉納を頑張らなきゃね。私がツクナの分も一緒に頑張るから、気楽にやればいいよ」  姉はその表情を見てそれを和ませるように頭を撫でると、完全に平静を取り戻し優しく語りかけた。  そんな姉の優しさに気持ちが和んだ月凪はにこやかに「うん」と応えると、姉と共に再び社殿へと足を運んでいった。  うっすら浮かび上がる桜の木は、花を付けることは無かったもののそこには小さいながらも若葉が付いており、二人を見送るように風でその若葉を揺らしていた。
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!