人魚がいた頃

1/13
30人が本棚に入れています
本棚に追加
/13ページ
 私は人魚を見たことがある。  あれは造船所で働いていた頃だ。そこは小さな美しい湾で、よく不思議な生き物が打ち上げられることで有名だった。馬の頭をした蛇、象ほどもある牡鹿──実にさまざまな生き物の骸を、仕事の傍らに見てきたものだ。  だから人魚くらい、別に驚くには値しない。  ただ一つ違ったのは、その人魚にはまだ息があったことだ。髪には海藻や釣り糸が絡みつき、たくさんのフナムシが身体中を這い回っていたが、それでも彼女は生きていた。 「放っておけよ」昼休み、飯を食うのも忘れてしげしげと人魚を眺める私に先輩は言った。「弱ったふりは奴らの常套手段なんだよ。いまに海に引きずり込まれて、喰われちまうぞ」  けれども私には、彼女を放っておくことはどうしてもできなかった。それでつい、部屋に連れ込んでしまったのだ。まるで水揚げされたマグロの如く、軽トラックの荷台に積んで。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!