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別れの朝、人魚は自分の指を噛んでいた。
「海の仲間たちと違う姿に変わっていくことに、抵抗はないのか」軽トラックで彼女を海に送り届けながら、私は尋ねた。
助手席に腰かけ、ご丁寧にシートベルトまで締めた彼女は言葉少なに言った。「自分で選んだことだもの」
「差別されたりしないか」
人魚はふっと笑った。「海の中はね、誰もが多かれ少なかれ姿形も色も異なってるの。いちいち違いをあげつらっていては、キリがないわ」
それでも私は、彼女の行く末が気がかりでならなかった。「なぁ、海から離れてずいぶん経つんだし、なにかと不便なこともあるだろ。辛かったらたまには逃げてきても──」
「だめ」彼女はきっぱりと断った。「あなたには、完成された私だけを見てほしいから」
その日はとても穏やかに晴れていた。波は静かに白い砂を洗い、どこかから朝の鳥が鳴く声が聞こえてきた。
「ねぇ、キスしてよ」いよいよ海に帰る直前、彼女はそうせがんだ。
「いいよ」
私達は唇を重ねた。
「本当にありがとう──必ずまた、会いに来るわ」
それが人魚の、最後の言葉だった。そして彼女は身を翻し、海に没していった。あとには細かな泡だけが残された。
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