人魚がいた頃

9/13
前へ
/13ページ
次へ
「ね、ちょっとここ触ってみて」  長い臥床の末に目を覚ますと、人魚がすぐ隣で横になっていた。 「体に障るぞ、戻ってろ。俺はもう大丈夫だから」 「いいから、ここ」  彼女は腹鰭を指していた。  言われるままに触れてみると、骨の感触があった。ちょうど地上の人間の、足指と同じ感触だ。 「この間まで、こんなのなかったのよ」人魚はどこか楽しそうに言った。「長い闘病生活のせいかしらね。ご先祖様に起こったのと同じ現象が、私にも起きたみたい」 「ご先祖様?」 「初めて陸に上がった魚のこと」  子供時代にボロボロになるまで読んだ古生物図鑑の一ページを、私は思い出した──その魚は、確かユーステノプテロンとかいう名だったはずだ。鰭に指を有し、肺呼吸をしていたという、恐竜よりも昔の魚。 「そう遠くない将来、私もあなたと同じになれるかもしれない。歩くって、どんな感じかしら」 「わかったから、もう戻れ」  地上を這う人魚の姿は、ちょっとしたホラーである。  髪を振り乱し、腕の力だけで進むのだ。正面から見るべきではない。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

30人が本棚に入れています
本棚に追加