11人が本棚に入れています
本棚に追加
榊原たちと別れ、校舎と同じ敷地にある寮へ向かう。半分に割った月が空の低い位置に見えた。
寮はかなり老朽化の進んだ建物で、今は寮生も少ない。来年には取り壊されるという話もあった。
玄関のすぐ脇の管理人室には主事(用務員)さんが目を光らせている。俺は受付で名前を書くと、桜井の後についてぎしぎし言う階段を登った。
「桜井さあ、来年この寮がなくなったらどうするの?」
「え? ああ……通うしかないかなあ。でもそうなると一時間以上かかるんだよなあ。僕がこの学校受けたのは寮があるからってのもあったから、取り壊しは困るんだけど」
桜井の部屋は六畳くらいの広さでベッドと机、それから造りつけのクローゼットがある。ロッカーに毛がはえたようなやつで、なかなか扉が開きにくいそうだ。それに私物のカラーボックスが二個。
壁にカレンダーが貼ってある以外は装飾はいっさいない、寂しい部屋だ。
他の連中はアイドルやアニメのポスターやフィギュアやプラモやパソコンなんかが置いてあってにぎやかなのだが、桜井にはそういう趣味はないらしい。
そのカレンダーにしたって……。
「毎回思うけど悪趣味な絵だよな」
「そうかな。けっこう好きだけど」
俺はよくしらないがヨーロッパの十七世紀くらいの画家でボッシュというやつらしい。
暗い、どこともしれぬ場所で気色の悪い異形の者たちが人間を迫害している。それが細かくネチネチネチネチ描いてある。
楽園と対になっている地獄の絵だが、描かれている背景が妙に現代風なのだ。ビルや工場や研究所みたいな建物に見える。もちろん十七世紀の人間の想像なのだが、そんな風に描かれるとこの現代が地獄のように思えてくるじゃないか。
「そこが面白いと思うけど」
以前そう言った俺に桜井はそう答えた。でも今でも俺はこの絵が好きになれない。
いつものようにベッドに座ると、桜井はポットからお湯を出してインスタントコーヒーを入れてくれた。
「ああ、さんきゅ」
狭い部屋の中がコーヒーの香りで満たされてゆく。俺は椅子に座った桜井を見あげた。
桜井は横顔がきれいだ、と俺は思う。鼻が高くてまつげが長くて、唇がちょっと半開きになっているのがいい。首が長いのもよくわかるし、何よりこうやって見ていても気づかれない……
「真下」
桜井が顔を上げ、正面から目があってしまった。俺は口にふくんでいたコーヒーを食道ではない場所に入れてしまい、激しくむせた。
「げほげほっ、げほっ」
「ああ、ばか。何やってんの」
桜井が笑いながら立ち上がり、背中をなでてくれる。優しい手が背をすべり、俺は顔が赤くなってんじゃないかと気が気じゃない。
「だ、大丈夫。平気だって……」
「真下、コーヒー飲むのへただよね。前もむせてた」
「そ、そうだったか?」
「そう」
くっくっとのどの奥で桜井が笑う。ちょっときつめの顔立ちが、笑うとひどく幼く見える。彼が笑うなら何百回でもむせてやろうか、と俺は思った。
いつから友人にこんな妙な気持ちを抱くようになったのかわからない。
桜井とは入学し、同じクラスになった時から気があった。自分は陸上部で彼は図書委員で、好きな科目も食べ物も、オンナノコの好みも違うのに、桜井と一緒にいることが楽しい。夏休みは用もないのに彼の家に出入りして、しょっちゅう市営のプールに行った。キャンプにも行った、花火大会にも行った、夏祭りにも行って……
意識しだしたのは二学期になって、同じクラスの榊原たちと合コンした時からだったろうか。
人数が足りないからって、しぶる桜井を説き伏せて五対五でカラオケに行って。
あの時、ビール飲んで。
酔った桜井が俺の肩に体をもたれさせてきた時、マジ心臓が爆発するかと思った。
なんでかわからない。
桜井の息や体温がすごく生々しく感じられて、どの女といるより下半身にきっちりきちゃって。
自分がおかしくなったのだと思った。
それから桜井を見るだけでどきどきする。だけど話とかしないのは我慢できない。朝クラスで会って話して笑ってそれだけですげーしあわせ。時にはこうやって彼の部屋でだべって。
桜井は知らないだろう、俺がこんなこと考えてるなんて。
そしてそれは知られちゃいけないことなんだ……。
「真下、どうしたの?」
桜井が覗き込んでくる。それにあわてて手を振って、
「何でもねーよ。で、なに? コーヒーごちそうしてくれるだけじゃないんだろ?」
「え、うん……」
桜井は椅子に戻り両手でカップを持った。
「さっきの話。あれ、ほんと? 二年の人が死んだこと」
「殺人の?」
「うん……」
桜井は視線を足下に落とした。
「首絞めて殺されたってやつ?」
「首を絞めて……か」
桜井の顔がこわばった。
「あ、いや……これは榊原が言ってたんだ。でも確証があるわけじゃねえよ」
真剣な顔の桜井から俺は目をそらした。いい加減なことを言って軽蔑されたくはない。
「なに、そんなことが知りたかったのか? 二年の野崎って知ってるやつ?」
「ううん。知らない。でも……」
桜井は視線を頼りなくさまよわせた。
「まさか……」
「まさか?」
呟きに反応した俺に、桜井ははっと目を見開き、
「なんでもない」
とあいまいな笑みを見せた。
「死んだやつのことが気になるのか?」
「え……、うん……。どういう人だったのかなって。ごめん、真下には関係ないよな」
「そんなことねえよ……」
関係ない、なんて言わないでほしい。
「先輩に聞いてみようか?」
「え、いいよ、そんなの」
「気にすんなよ、俺もちょっと興味出てきた。明日聞いてみる」
「……」
桜井は少しためらっていたようだが、やがて何も言わずに下を向いた。俺はそれを肯定の印と受け止めた。
「それにしてもお前がそんなことに興味持つなんて思わなかったな」
「そう? ……おかしいかな」
「いや、お、おかしくはないけど---お前、その人とは知り合いってわけでもないんだろ? なんでそんな気になるかなって」
「……だって殺される人って---なんで殺されるのかって不思議じゃないか」
「え?」
なぞのような言葉だった。だが桜井がすぐに話題を先日のテストのことに変えたので、それ以上追求はできなかった。
最初のコメントを投稿しよう!