手の上のイニシャル

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 二年の野崎という生徒は、同学年の生徒にはよく知られていた。  細面の、わりとモテるタイプの男で、他校の女生徒とつきあっていたらしい。成績もよかったし、人つきあいもいい。誰からも恨みを買うような人間ではなかったという。  俺が陸上部の先輩たちから聞いたところではこんな具合だった。  翌日には全校生徒が野崎の死が殺人であることを知っていた。夕方から夜にかけてテレビがそれを繰り返し放送したからだ。朝の緊急朝礼では校長が「非常に遺憾な事件」と言い、動揺しないようにと呼びかけた。  やがて榊原の言ったとおり、警察の人間の姿が目につくようになった。下校時間に校門のそばをうろついて生徒から話を聞いているらしい。学校まで入ってこないのはきっといろんな事情があるのだろう。  俺はクラブを終えると図書室へ向かった。思った通り桜井がぽつんと一人で椅子に座っている。  机の上には本が広げられていたが、彼の目は窓の外に向いていた。  俺はそっと彼に近づいた。驚かせたくなかったせいだが、今の桜井にはなんというか、声をかけにくい雰囲気があったのだ。  桜井は片手であごを支えて俺に横顔を見せていた。その表情がぼんやり、というよりはうっとりしているように見えたのだ。熱心で、それでいて遠い。周囲になんの警戒もはらわずにただ一つのことに心が奪われている。  俺はそういう表情をよく知っていた。  陸上やってるとたびたび目にすることがある。ゴール間近のマラソンランナーとか、ね。  短距離のやつらの表情にはそういう余裕はないけど。  俺もそうだけど短距離選手にとってゴールはスタートの一瞬後だから、ほっとする間もうっとりする間もないもの。  とにかく桜井はそういう顔をしていた。  俺は彼のまなざしの到達点が、だから気になった。  そんなにうっとりするようなゴールが見えるのだろうか。  だが、桜井の後ろから覗いた窓の中には暗くなって照明がついたグラウンドしかない。そこで野球部がほとんど見えないボールを追いかけているだけだ……。 「ああ、真下?」  桜井が窓ガラスに映った俺の姿に声をかけた。俺も鏡像になった桜井に軽く首を動かした。  俺は声をひそめて自分が集めた二年の生徒の情報を桜井に提供した。桜井は黙って聞いていたが、やがて「しいっ」と鋭く俺を制した。  横に阿部先生が立っていた。 「なんだ、真下。珍しいな、お前が図書室にいるなんて。明日は雨かな」  気さくな調子で話しかけてくる。阿部先生は国語の教師で、年も近いしさばさばした性格でつき合いやすい。俺も嫌いじゃなかった。 「俺だってたまには読書くらいするよ」 「そうか? さっきからおしゃべりの方が多いんじゃないのか?」 「先生こそ読書もせずに俺たちを見張ってんの?」  阿部は軽く肩をすくめた。 「俺は指導要綱を作ってんだよ。お前たちにいかに国語の楽しさを覚えてもらおうかなって」 「国語の時間は楽しいよ。よく寝れるし」 「こいつ」  阿部は俺の冗談に笑いながら頭をこづく真似をした。 「静かにして下さい」  いけねえ。図書のねーちゃんに叱られちまった。阿部は絆創膏を巻いた指を立てて角を作ると、こそこそと自分の机へ戻った。意外と近い場所に店を広げている。 「場所を変えよう」  桜井がそう囁いて俺たちは立ち上がった。  見るとガラス窓に阿部が映っている。阿部は俺たちが帰ることに気づき、ガラスに映る俺に向かって手を振った。  俺もバイバイと窓の中の教師にあいさつをした。
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