43人が本棚に入れています
本棚に追加
エピローグ
──その日、地産地消食レストランにリニューアルした『エアデ』に、珍しい来客があった。
「トンネル向こうで、蕎麦屋をされている方ですよね……?」
気がついたのは、三城貴仁だった。
現在、シェフをしているが、調理後は厨房を出て、客のテーブルを回っている。営業目的の挨拶もあるし、料理の評価や要望を聞く為だ。
調理バイトをしていた大学時代、客のニーズを取り入れ、人心を掴むことを覚えた。
自分が作りたいものを頑なに作るタイプもいるが、自分は、人を喜ばせ、また来てもらえる料理と場所を作りたい──それこそが、この店を、この建物で、長く営業させる方法だと……断言できる時の為に、腕をふるっている。
「同じ移住者、同業のよしみで、よろしければ忌憚のないご意見を」
「おや、自信がおありなんですね?」
蕎麦屋の若い主人は、客前で使う笑顔を浮かべて、三城を見上げた。
「いえ──そちらのお店では、限られた素材を、とても大事に使われていると、噂をお聞きしています。そういう方から見た、当店の感想を是非、うかがいたくて」
「ウチなんかより、たくさん食べ歩いている人達が来て、評価とか、たくさん聞いているでしょう?」
「それも、うかがっていますが──」
地産地消食レストラン『エアデ』は、いま、新しい評価をどんどん世に流されている。
やはり、賛否は分かれており、パンを辞めてレストランということに、批判的な言葉も受けている。純粋なパン好きは離れ、商売主義に走ったなどと、言われているらしい。
因みに、あのパン好き姉妹は新しい『エアデ』には来店していない。姉のブログには、「暫くお休みします」と書かれたきり、更新がないらしい。──何でも、自慢の父親が突如、「自分は人を滝に落として殺した!」などと、叫び出す不祥事を起こしたそうで、伊東局長のファンだった星名は、「どうして、あんないい人がそんなことを……?」と、哀しんでいた。
だが、新しい『エアデ』に良い評価の流れを作るべく、三城も星名も、新旧スタッフも奮闘していた。
実は、パン屋時代のスタッフは、全員が辞めかけたが──三城の奮闘を見て、思い留まった。その理由は──…
「──じゃあ、言わせてもらいますが、正直、もっと侮っていました。けど……特に、このパン、いいですね。これこそ、素材を大事にしている味がする」
「……ありがとうございます。それは一度、作るのをやめたパンなんです。この店を創業した義兄が作っていたのですが、自家製酵母が死んでしまって……でも、復活させました」
「復活させたって、酵母を?」
「はい」
さらりと三城は言ったが、この天然酵母を起こすのに、大変な苦労した。どういうわけか、何度仕込んでも、うまくいかないのだ。
いつもは自分を立ててくれる星名にさえ、「あなたには無理なのよ」と、言われる始末……
店の吹き抜け天井から、紐でも吊るしたい気分になって、見上げたら──白いコック帽にコート姿の、冬晟の幻が見えた。
生前は、いつ、三城が手伝おうとしても、「おまえに手伝えることがあるのか」と、言われていたし──てっきり怒って、化けて出てきたのかと思った。──だが。
『俺が手伝ってやる。もう一度、酵母を育ててみろ』
……と、幻聴が聞こえた。
それで正気に戻って、次に仕掛けた酵母が、うまく育ったのだった。
「あれは、本当に義兄が助けてくれたんだろうか──まさかな、と、思っています」
三城と蕎麦屋の店主が笑う傍ら……ずっと黙っていた奥さんの方が、口を開いた。
「その、お義兄さん……に、よく似た方が、夏の終わりに来店されたことがあるんです。あの土砂崩れの後でしたし、勿論、他人だと思いますが──それから、こちらのお店が気になって。私も夫も、他の店で外食なんて、滅多にしないんですが──」
「そういう料理人の方、結構いらっしゃいますよね」
「でも、ここの料理はいいですね。三城さんが、ちゃんと素材と向き合おうとしているのがわかります。流行りのメニューや濃い味付けにすれば簡単なのに、そうじゃなくて、素材を引き立てるにはどうすればいいか、思考錯誤した内容だと感じました。それと、このパン……美味しいです。正直、お料理とのバランスとは、まだまだだと思いますが、これからも、がんばってください」
「──ありがとうございます」
三城は深く頭を下げ、笑みを浮かべて起き上がった。テーブルを後にし、二階客席からの階段を降りる。
彼が、吹き抜けの宙を見つめ、涙ぐんでいるのを──この世と交わることはない空間越しに、冬晟と護は見ていた。
「……酵母の件、本当に助けてあげたの?」
「出来もしないことをやろうとしてるから、呆れて、口を出しただけだ」
「手も出してる様だけど?」
「創業時のパンを出すっていうのに、変なものを作られたら、先代ブーランジェの名折れになるからだ!」
冬晟は頑固者だが、がんばる人間をも徹底的に否定するタイプでは、なかったということだ……。
──数ヶ月前。
冬晟の四十九日が過ぎた、数日後……
二階の事務所兼居間と寝室の、片付け作業が始まった。レストランを開業し、二階を客席にするからだ。
冬晟の、最低限のものしかない寝室は、星名に見る間に片付けられていったが、三城が手を付けた事務所の方は大変だった。
パンに関わる蔵書や書類、データなどは膨大で、メモ書きも、迂闊に捨てられないものばかりで──三城は当初、イラついている様子だった。
「どれだけパンマニアなんだ」
などと呟くのを、この世とは別空間にいる冬晟だが、聞き逃さなかった。
片付けられる光景を、ふたりで見ていて──護は心配して、冬晟に寄り添っていたが、やはり、薄々は現実に勘づいていたのだろう……三城の呟きにカチンとなりながらも、冬晟は、じっと堪えていた。
やがて、三城の生命波動から、苛立ちが消えた。逆に、顔つきは厳しくなっていた。
「……これ、本当に全部、捨てられないな」
「えっ? 無理よ。ここ、客席になるんだから──他に置く場所もないし」
星名は、事務所にある冬晟のプライベートな持ち物を、片付け始めていた。
本棚には、例の護の写真立てが──初めて手に取ってよく見ると、何か紙が挟んであった。読んでみるが、よくわからない内容なので、大切な物を入れる箱にそっと仕舞った。
そんな星名に、三城が声を掛けたのだった。
「俺……大事なところを抽出して、まとめる。義兄さんみたいなパン屋はできないけど、料理に合うパンだけでも遺したい」
「ええっ──なんで? いいのよ、そんな気を遣わなくても……」
星名はそう言って、霊体として見えている冬晟に、「ごめんね」という目を向けた。冬晟は、あえてノーリアクションだった。
「いや、俺が、作りたいんだ。俺がやりたいレストランに必要なのは、このパンだって、いま気づかされたんだ。ドイツかぶれの頑固なパンだって思っていたけど──素材を活かした正当な作り方だったって、わかった。だから、これをやりたい。遺すべきだ……変な感傷じゃなくて。大体、俺と義兄さん、そんな風に仲良くなかっただろ」
「まぁ、確かに」──冬晟が、頷く。
「貴仁に、そんなことを言われても……あんまり嬉しくはないな。おまえに俺のパンが真似出来るのかって、かんじだし」
「冬晟、星名さんには聞こえるから……」
星名は、美女の瞳を不思議そうにして、こちらを見返していた。
冬晟が珍しく、「貴仁」と、名前を呼び捨てたからだと──護は気がついていた。
冬晟はいま……生きている時はわかり合えなかったが、三城貴仁の目指すものがわかる。
素材を大切にすることと、客の要望に合わせることは、一見、どちらかを捨て、何かを足さなくてはならない様だが──両方を成立させることは出来るのだ。
自分が正しいと思うパンを客にわからせようとする冬晟と、客にわかり易い料理を出そうとする三城は、一見、真逆なことをやっている様に見えて……実は、目指すものは似ていた。
この近辺でも、外国であろうと、同じ地球の上──その恵みである素材を感じ、食べた人に丸い気持ちになってもらいたい、と……その目的は同じだったのだ。
自分の目指したパン屋と、いまの『エアデ』は、ずいぶん違うが、これはこれでいいと、冬晟は思えた。
そうして、自分達が行くことはない、この世にある『エアデ』を、護とふたりで愛おしげに、眺めたのだった──
☆☆☆
真っ暗な空間に、無数の儚く光る星々が浮かんでいる。
それらは香ばしいパンの匂いに惹かれて、夜明け前の空へと向かってゆく──…
「さぁて……そろそろ開店だな」
柴染色のハンチング帽に黒いポロシャツ姿で、冬晟は立ち上がる。
「まだ早いよ。……朝日が昇らないと、扉が開けられないだろ」
同じ服装の護は、テーブルの上、足元まで零したパン屑だらけにして、そう言う。
「また、こんなにボロボロこぼして……」
「しょうがないだろ、冬晟のクロワッサンはサックサクで最高だけど、急いで食べたら、こうなっちゃうんだから……」
父親譲りのやさしい甘さに、その息子が力と心を込めた生地で作った、最高のクロワッサン──他にも、美味しいパンが出来上がり、すでに並べられている。
冬晟が作るパンが、この世で──あの世でも一番だと思う護が、この店の売り子だ。
ここは、あの世とこの世の境にある、パン屋──時のない空間なのだが、何故か夜明けがちゃんときて、朝日が昇った時にだけ扉が開き、パンの匂いが広がってゆく──
それに惹かれて、いろんな人達──さまよっている霊達がやって来る。
中には、ここが何の建物で、何をやっている店なのか、わからない霊も……わからなくなってしまった霊もいる。
扉を開けて──護は笑顔で、彼らにわかる様に、声をかける。
「どうぞ。元郵便局の、パン屋です!」
地球型の看板に掲げてあるプレッツエル、ライ麦を配合したドイツパンのブロート、果実などのいろんな具が載ったペストリーは、ここでも人気で……特に護のお薦めは、キャラメリゼされたバナナだ。勿論、最高のクロワッサンも……いろんなパンが取り揃えてある。
「最高だけど、か」
冬晟は護に顔を近づけて……パン屑のついた左頬を、ぺろっと舐めた。
「うん、パン屑まで旨いなんて、確かに最高だ」
「もう──。あっ、そろそろ朝日が昇る。開店しなきゃ!」
キスされるのかと、少し期待した護だったが──照れ隠しに、大袈裟にそう言って、立ち上がった。冬晟も続いて、扉の前に立つ。
ふたりは同じ服装をしていた。同じ格好がしたくて、冬晟は白いコック帽とコートから、この衣装に替えたのだ。
実は、初代『エアデ』の、冬晟以外の制服だった。冬晟は自分のスタイルを貫いていたが、密かにスタッフと同じ格好もしてみたかった、と──冬晟のこの変化を、護は好ましく思っている。
「パン屑は旨かったが……護と、キスしたかったな」
……こんなことを、開店間近の扉の前で言うなんて──護は今度こそ、隠すことなく照れる。
「……いいよ、早く」
キスをするふたりに、朝の陽光がやさしく差し込む──…
今日も、元郵便局パン屋の一日が始まる。
好きな人と一緒にいて、好きなパンを焼き、好きなパンを売れる──こんな、幸せなことはない。
こんな気持ちで作られ、売られているパンを食べて、幸せにならないわけがない。
☆終☆
最初のコメントを投稿しよう!