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三 あいつとは合わない
夕方六時を過ぎて、ようやく冬晟は厨房から出てきた。
がらんとなった売り場を通過し、階段の真下にある戸から出ていった。しばらくして、濡れ髪にほかほか顔で戻って来た。どうやら奥に、シャワーがある様だ。
護は吹き抜けの、一階と二階の間を何となく浮いたり降りたりしていた。霊体だから、こんなことができる。そして、できてしまえば、面白くもなんともない。だが、冬晟が「さすが霊」みたいな目で見るので、霊体らしく浮かんだまま冬晟について、二階へ上がった。
事務所兼居間の方へ向かう。窓辺に冷蔵庫があり、冬晟はそこから缶入り炭酸飲料を出して、自分だけ飲んだ。
「僕にはくれないの?」
「これ、ノンアルコールだけど。それに、働いてないのに、飲みたい?」
その言葉に、護はふて腐れる。それで、ちょっとぶっきらぼうに──
「美人の妹さんと働いて、いいね。そうだ、義理の弟さんにも会ったよ」
「ああ、三城? あいつとは合わない」
そんな話題を振ったわけではないのに、冬晟の返しは、きっぱりとそれだった。
「ミキって、読むんだ」
「ああ」
「……あれだけ、いまの時代は名前呼びだって言ってたのに、苗字で呼ぶんだ?」
「ああ。向こうだって、お義兄さんって呼ぶ」
「そりゃ、それはそうだろ」
「歳は一緒だけどな」
同い年の義弟なら、尚更、「冬晟」で、良さそうなものなのに……?
「あいつとは合わないからな。三城は、こういう狭いパン屋は未来がないとか、身内面して言うから、ムカつく」
「狭い? 十分、広いと思うけど」
「天然酵母、ドイツパンは、商売として狭いそうだ。俺は手広く経営したくて、店をやってるわけじゃないって、言っているのにな」
「どういう意味?」
「三城に聞けよ。これ以上は話したくない」
冬晟は冷蔵庫から、旨そうなウィンナーを取り出すと、袋ごと鍋に入れた。それは自分のもあるのだろうか、と、思った後、
「あの人に僕は見えてない。だから、聞けないんじゃないかな」
と、護は返す。
「星名には見えたし、話せたんだろう?」
「星名さんは、きみの妹だから、できたんだよ、きっと」
「俺達兄妹を変わり者みたいに…… 三城は偏屈だから、霊も見えないし、声も聞こえないんだろうさ」
「でも、その方が普通じゃないかな? 霊にパンを食べさせたり、平気で会話したりしてる方が、変わってるんじゃ?」
「そんなこと言うんだったら、ウィンナーサンド、喰わせないぞ」
冬晟は、パンに切り込みを入れていたナイフを向け、脅し気味に言う。勿論、冗談だ。
「また、パンなのか……どれだけパン好きなんだよ」
「俺はブーランジェリー……パン屋だからな」
冬晟はそう言うと、冷蔵庫から新しい缶を取り出し、護に差し出した。
「よく冷えてるし、ノンアルコールでもビール風味だから、ウィンナーとも合うだろう」
どうやら、護に食べさせるウィンナーサンドの出来上がりに合わせて、飲み物を渡したかった様だ。さっきの冗談といい、伝わるのが遅い気遣いだなぁと、護は思った。
「……ありがとう」
そしてこれが、今日の晩餐らしい。優雅なのかよくわからないが、北谷冬晟は、これが日常という人間なのだ。
「? ……これ、きみが焼いたパン?」
「違う。よく、わかったな。同業者が焼いた、巷で評判のパンだ。取り寄せてみたんだが」
「なんか……ヘンに白くてやわらかいね。せっかくのウィンナーにも合わないっていうか」
「よく、わかるじゃないか」
決して不味いわけではないが──冬晟のパンを食べた後だと、力が籠もっていないと言うか、物足りなく感じる。
「いまは、簡単に作れるものごとが主流で、時間や労力を注ぐことは、ただの無駄と考えられる。従来の手間を省いて、そこそこ旨いパンは作れるし、何なら売れる。でも、何か足りない気がする。そこが、俺は、作り手の『力』の部分だと思っている。その、力が足りてないとこういうものになると、批判してどうこうじゃなく、冷静に知っておかないと、いいものは作れない」
評判のパンを取り寄せて、なんだこんなものか、自分のパンの方が時間と労力がかかっていて旨いと思う、そういうことではないと──冬晟は言った。
「なるほどね。きみって……実は、かなり腕のいいパン職人なんじゃないかな?」
「俺もそう思う。腕はいい。売上げは、そんなによくないのかもしれないが」
「星名さんは、程々に繁盛してるって言っていたけど?」
「そうか? あいつ、もっとペースを上げて、ここを買った借金を返せって、うるさいけどな。真面目に一生やってりゃ、生きてるうちには返せると思うんだがな──過去の影響だろうな……」
飲んでいるのは、ノンアルコールのはずだが──酔いが回っている人の様に、冬晟の話は飛んだ。
「父さんのパン屋だけど──父さんが急死したせいで、最後はゴタゴタだったんだ。支店は畳むことにしても、本店は残したい。けど、店の名前を使って別展開をしたいって業者が出てきたりして…… 母親は、弟子だった男に本店を任せたかったんだけど、その人には自分のやりたい方針があって──その男に惚れて、母親は再婚することになった。結局、譲渡した本店は廃業、弟子の男の店も閉店になって、借金だけが残った。その時、星名の高校進学も危ういって経済状況になって──あんなの子供の頃から見てたら、借金なんかするな、したなら早く返せってなるよな」
「そんな修羅場が…… きみは進学とか、大丈夫だったの?」
「そんなのを見て、俺は、自分の店はひとりで経営しようと思った。高校の時にはパン屋をやるって決めて、大学には行かずに専門学校に行って、大手ベーカリーに就職して、星名が高校卒業するまでは石の上にも3年で働いて、その後、やっと好きな場所へ修行に行って、二十六歳の誕生日に、この『エアデ』を開店させた」
「えあで?」
「die Erde……エアデ。ドイツ語で、丸いとか、地球という意味。パンは丸いし、小麦ができるのも、パンを食べる営みも、地球の中にあるから」
「カッコイイな──ここ、そんな店名だったんだ?」
「見てなかったのか?」
「だって、僕、この建物から出てないし」
「そう言われてみれば……終日、館内だけをうろうろしていたな」
仕事に戻ってからも、冬晟は、護の様子を見ていた。どうしているか気になると言うより、あの思い人だった護がここにいる、本当にいる……と、見てしまっていたかんじだ。
「明日、外の看板を見てくれ。地球にプレッツェルを嵌めたオブジェが掲げてある。その下に、die Erdeと書いてあるんだが……まず、誰も読めない」
「看板の意味、ないじゃん。しかも、なんでドイツ語?」
「うちはドイツパン主流だから」
「ドイツ、好きなんだね?」
「……まぁ、フランスよりは。修行の為に、欧州のブーランジェリーを周ったんだが、フランスは人間が合わなかった」
「そうなの? ……まぁ、きみの店なんだし、ドイツでも何でもいいんだけど……ぷぷっ」
言葉終わり、護は笑い出してしまった。フランス人と合わなかったなんて、人間と合う合わないが激しいなと、思ってしまったのだ。
斗眞は、こんなことはまったくなかった。誰とでも、穏やかにつきあっていた。息子の冬晟は、誰に似たのだろう?
「因みに、父さんが出した店の名前は、『グラン・シャリオ』……フランス語で、北斗七星っていう意味。だけど本人は、フランスに行ってないという、ね」
「北斗七星……」
斗眞が天文学部に入ったきっかけ──無数にある星の中で、彼が一番好きな星列だった。
「北谷先輩──ブレないな。……でも、なんでパン屋を始めたんだろう?」
そうだった。いろいろ聞いてきたが、冬晟には悪いが、自分が知りたいのはやはり、そのことだった。
「──それは、護さんが死んだのが、きっかけになったんだ」
「ああ……」
昨日、冬晟はそんなことを言っていた。本当だったのか……でも、何故?
冬晟は、遠い何かを見る目になって、語り始めた。
「護さんが死んだ年に、その時の仕事を退職して、翌年、転職したみたいだ。星とパンが有名な、山奥の老舗ホテルに……俺が小学四年生の時、そのホテルに家族で泊まりに行ったことがあるんだ。本当に山奥で──どうしてこんな、生まれた町からも遠い場所で働くって決めたのか、聞いたんだ。そしたら……」
──星がきれいな場所に行きたかったんだ。……手をのばせば、星に届くかもしれないくらいの高い場所へ……そこへ行けば、好きだった人に逢えるかもしれないと思って……
天の川が流れる星空の下で、父親になった斗眞が、息子にそう語っているその光景が、護にも見えた。
「好きだった人? お母さん以外に、好きな人がいたの?」
と、子供の冬晟が咎める。
「母さんに会う前に会って、もう、死んだんだ。……だから、いいだろう?」
その哀しげな父の顔に、子供ですら黙らされた。
「しかも、一度、告白したんだけど、受け容れてもらえなくて。……その人の幸せを願いながら、自分は自分の人生を生きようと思った。──だけどその後、その人が大変なことに巻き込まれて死んだって知って。僕が、その人の傍にいたら、助けられたかもしれないのにって、物凄く悔やんだんだ……」
その頃、一流企業の社員で、もてはやされていた──その噂が届いて……気にしていて欲しい、みたいな気持ちがあった。
開いた距離の分、実はつながっている気がしていた。遠く離れているからこそ、引きが強く……いつか、逢いに来てくれるのではないか、と。──自分は何をバカなことを考えていたんだろう……
「それで、思い上がっていた自分も、その時の仕事もいやになってしまって──遠くに来たんだ。……勿論、こんなところまで来ても、死んでしまった人には逢えないし、何もできなかったけど」
だが、ここで、やりたいことが見つかった。このホテルのパンが食べたくて、登ってくるお客さんがいるのを見て、自分もそういう、わざわざ逢いに来てもらえる仕事をしたくなったんだ──回想の中の斗眞はそう言って、微笑んだ。
息子に向けるものにしては頼りない表情で……もしかして自分を見ているのではないかと、護は内心、どきっとした。時空を越えて──斗眞と目が合っているのかと。
だったら、自分も言いたい、伝えたかったことがある。そう思って、あらためて、回想の中にいる斗眞を見るが──目は合わない。
「……お父さん、その人に、もし逢えたら……どうしたかったの? 何か言いたいの?」
「ん? ……ああ、それは──」
遠い回想の中の斗眞がいる先に、星が、ちかちかという音が聞こえそうなくらい、瞬いていた。その星たちが、眼前いっぱいに迫ってきて──護が思わず目を閉じると、瞼の裏は真っ暗で──…
次に目を開けた時、大人の冬晟が怪訝そうな顔をして、自分を見ていた。
「あ、ごめん。……で、北谷先輩は、なんて?」
「だから、何も、言わなかった」
口をつぐんでしまったのだと、冬晟は言う。
それ以上は聞いてはいけない、おしえてはくれないのだと察したので、言及しなかったと。
「……バカだよな。あの時、言ってくれてたら──いま、伝えられたかもしれないのに」
「何を?」
「護さんに、思いを」
「……せ、先輩は、別に僕のことなんて」
「父さんは、護さんが好きだったんだ。俺は知ってる。わかってる」
「なっ──…」
斗眞が自分を好きだったか、真偽は何処かに置いて、息子の前で認めることだけはあってはならない──そう思った護は、否定に努めた。
「同じ部の後輩として、優しくしてもらって、本当に感謝してる。でも、先輩も僕も、そういうのじゃないから」
「護さんにとってはそうだったとしても、父さんは恋愛感情で、好きだったんだよ。……言ってよかったよな、これ」
もう、この世にいない人間に許しを乞うが──確認しようもなかった。死んだ者はもう、何処にもいない。
だが、せめて、その思いは、届けたい相手に届けるべきだと、それが生きている人間に出来ることだと、冬晟は思う。
「父さんのだけ暴露したんじゃ、フェアじゃないな。俺も、そういう人間──写真の中の護さんが好き、だった」
「好き、だった……?」
「あ、いまも、好きだ」
ここで、真正面から顔と目が合う。お互いに逸らすかと思うが、どちらも逸らさなかった……
「俺も、同じ男を好きになった。親子だから、しょうがないのかな……」
そう言って、グレーがかった瞳を細める。
遠い日の斗眞と重なって──その目に引き込まれる。心が捻じられていく様で、苦しくて……護は、
「……でも、どちらかと言うときみは、お母さん似なんじゃない? 目は、先輩には似てない気がする」
そう言って、逃げ道を作った。
「目? ……目は、星名の方がよく似てるよな。確かに俺は、母親似のキツイ二重だ」
父の弟子だった男と再婚した母親とは、折り合いが悪く──冬晟がよく言うところの、「合わない」なのだろう。露骨に曇る表情を見て、護はそれを察した。
「ところで、俺の告白は? 届いたよな?」
「…………」
うまくはぐらかしたつもりだったのに、冬晟にあっさりと引き戻された。また、心がぎゅーっと捻じられた様になり……萎んでゆく。
自分は、他人に思われる程の人間じゃない。家では兄より劣るし、事実、そうだった。それでいて認めて欲しい気持ちはあるから、みっともない──そんな気持ちになるのだ。
それに、斗眞もだったが、冬晟は立派な男だ。自分ひとりで店を出し、強い志を持って仕事をしている。生涯、それを続けるのだろう。そんな彼に、好きだと言われたり思われるなんて──…
今度は冬晟が、護のそんな心内を察した。
「……さすがに、一度に話し過ぎたかな」
冬晟がパン皿と缶を持って、流しに向かう。晩餐はこれにて終了の様だ。
「明日は……朝、早いの?」
パン屋といえば、そんなイメージだが……
「うちはオーバーナイト製法というのを取り入れているから……パン屋にしては遅い部類で、五時起きだ」
「いや、五時なんて早起きだろ。僕は六時半より早く起きることがなかった」
そんな、規則正しい公務員生活だった──定年まで続く予定が、たった八年で終わったけれども。
「俺は五時に起きるが……護さんは、好きなだけ寝てて、いいからな」
冬晟は手早く片付けを終えると、隣の部屋へ移動した。鍵を開け、中に入ると、そこはやはり、冬晟の寝室だった。
寝れればいいという簡易ベッドに、置ければいいという収納ラックがあるだけ。冬晟の生活の殆どはパンと仕事で、残り1割に最低限の生活があるみたいだ。
「護さん、何処で寝る? ……そもそも、寝る?」
「えっ…… ああ、僕は霊だから」
まず、床が土足であるこの部屋に、ベッド以外に寝られる場所はない。
霊だから浮いて寝るのもアリそうだが──宙に浮きながら眠った経験は、死んでこのかた一度もない。
「今日、出てきた場所に戻ろうかな……って、僕はなんで、そこから出てきたんだっけ?」
書庫──みたいな場所だと認識していたが、よく考えてみても、そんなものに心当たりもなかった。勤務先だった郵便局は小さく、書庫と呼べるものはなかったし、一般家庭の実家にも、あるはずがなかった。
「……あれって、もしかして、隣の部屋の本棚だったのかな」
高校時代の自分の写真が置かれていた、本棚──斗眞が遺し、冬晟が大切にしていた、書き付けの束と写真……あれがもしかしたら、ここへ来た原因と言うか、入口になったのではないのではないだろうか……?
「何を言ってるのか、よくわからないけど──今日はもう、俺の隣に寝てくれ」
そう言って冬晟は、ベッドの半スペースを叩いて促した。ここに寝ろ、と。
「いっ、いいよ。いきなり出現してきておいて、悪いし……」
護がそう言って後ずさると……後頭部がドアにめり込んだ。霊だから、物体を通り抜けできるのだ。
「待てよ、護……さん!」
冬晟は急いで護に追いつくと、手を掴み、しっかりと握った。パン生地を捏ねる作業で鍛えられた腕に引っ張られ、抗える余地なく、護はベッドの縁に座らされた。
「そんなこと言って──これで急にいなくなったじゃ、困る。俺の傍で、寝てくれ」
「そんなことはないと思うけど」
「頼むから」
手首から手の甲に、冬晟の掌がかぶせられる。冬晟の必死さが伝わると言うか──その気持ちに、手だけではなくて魂までも、包み込まれる様だった。
……到底、拒否できなかった。
「わかった……」
護はしかし、冬晟に背を向ける体勢で横になった。簡易ベッドは男ひとりが定員で、狭過ぎるせいもあるが──冬晟はさっき、写真の中の護さんが好きだった、いまも、と言った……告白だとも。
──そんな風に思ってくれている相手に、こんな近くで、どうしたらいいのか、わからない……僕は死んで、三十年も経っているらしいのに……死んでも治らない、バカだったんだ……。
この強張った心が、すぐ傍にいる冬晟に、バレなければいいが……
「……電気、消すけど。明日、護さんが消えていたってことは、本当にないよな?」
護は息をひそめたまま……静かに頷いた。
「本当に?」
冬晟の声が、ひどく近くで聞こえて、護はぱっと目を開けた。こんな近くに誰かがいるのは久しぶり……それこそ三十年ぶりだし、そもそも生前、護は他人と一夜を共にしたこともなかったから……
「だ、大丈夫だよ。僕も、もっとこの店を見ていたいし……外にあるっていう看板も、見なきゃいけないしね」
そう聞くと──冬晟は安心したらしい。部屋の灯りが落とされ、真っ暗になる。
「おやすみ…… 今日も……いいパンが焼けて……」
最後の方は、護に言ったのではなく、冬晟はいつもそう言ってから、眠りに就くのだと思われた。
これが日常という冬晟の傍に、こうしていられることが──不思議だが、何故だか嬉しい気持ちになって……
護も、死んでから初めて、安らかに眠りに就いたのだった──…
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