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四 丸く収まらない
翌朝──冬晟のベッドに、彼の姿はなかった。
いま何時かわからないが、すでに階下には、人が行き来する気配があった。
護は起き上がり、今日の気分の服をイメージし、爽やかな白シャツにジーンズ姿で外に出た。
昨日と同じ、朝日が差し込む店内に、落ち着いた年齢層の客達がいた。このパン屋──『エアデ』がある地域は年配者が多く、早朝から動き始める人々で、賑わっているのだった。
特に今日は土曜日で、明日明後日は店休──常連客達がパンを買い溜めに来るのと、休日に遠出してくる客とが入り混じり、午前中はずっと混雑する。
レジには星名と、昨日はいなかったバイトの女の子がいた。セルフレジが普及した時代だが、食品は慣れた人間が扱った方が早くて衛生的だから、個人のパン屋ではいまだに、店員がせっせと袋詰めをしているのだった。
護は、吹き抜けの宙を通過しながら、星名に朝の挨拶代りの会釈をした。星名はわかった様子だが、態度には出さなかった。
それから護は壁をすり抜けて、高校一年生の夏ぶり──死んでから初めて、元郵便局の建物の玄関前に立った。
水色の木の扉の、向かって左に、存在感のあるオブジェが掛かっていた。
冬晟から聞いた話だと、地球の上にプレッツェルらしいのだが、心なしかドイツ車のエンブレムに見える形だった。その下に、die Erde……とあるが、『エアデ』とは、確かに読めなかった。
「ディエ、エーデ……かな?」
冗談で、護が言った次の瞬間、
「エアデって読むんですよ」
と、少し笑い含みなかんじのする、甲高い女の声がした。
ふり返ると、日傘を差した、子連れの女性二組が立っていた。
「ママー、僕、チョコのやつが食べたい」
「あたし、赤いのー!」
「はいはい、ペストリーはセットを買うから。それぞれ好きなのをあげるから、お店の中に入ったら、ちゃんと静かにするのよ」
「わかったー」
幼稚園生くらいの男女児は、兄妹の様に雰囲気が似ているが──母親ふたりが、おそらく姉妹なのだろうと気づく。体から発せられる生命波動がそっくりなのだ。
「お先に」
口調は穏便だが、内心は急いているのが、波に現れる。早く入りたいのに、護が邪魔だったらしい。店内に入ると、母親姉妹の波動がいっきに活発化した。
「いらっしゃいませ。……あ、いつもありがとうございます」
「星名さん、おはようございます。早速ですけど、ペストリーのセットはあります?」
「ええ……ご用意してありました」
「よかったー 朝早いから、まだ、ないかもと思ったわ」
彼女達の様に、遠くから来る客の主な目当ては、ペストリーセットだ。
エアデはドイツパンの店なのだが、ペストリーが種類豊富で美味しいのだとメディアで紹介され、ゲットした客がSNSなどに載せてくれたおかげで、それが評判かつ、レアアイテム化してしまった。
この姉妹の、姉の方はパン識者の世界では有名人で、店に何度も来ては、概ね好意的な情報を発信してくれている。が、自分達の欲するパンがなかった時は、痛烈な批判をアップしてくれる。その為、姉妹の来店を見込まれる時は、早目に用意しておくのだ。
「あら……また、ラインナップが変わってるわね? 香りが違うもの」
姉の方はどうやら、鼻も利くらしい。
「なんて言うのかしら……日本の何処にでもあるお店になった、みたいな。看板のプレッツェルに偽りあり、ね」
星名は、美女の瞳を困った様にさせた。
プレッツエル型の看板は、ドイツのパン屋では定番だ。日本で掲げるのには、『このパン屋はドイツパンを扱っている』という意味が含まれる。……だが、確かに、いまの店内には、日本のパン屋で一般的なパンばかりが置かれていた。
そして、それについては、奥から出てきた、三城貴仁が対応した。
「あの看板は、この店を開いた義兄のこだわりです。エアデとは、ドイツ語で、丸い、地球という意味で……ここのものを召し上がられた皆さんに、地球の恵みを受け、丸い気持ちになってもらうことが僕達の希望ですから、あの看板は、そういうことの象徴です」
「三城さん! ……さすがですわね」
姉の方は三城の弁舌に、妹はルックスに、心酔しているみたいだ。それは生命波動ではなく、姉妹の表情を見ればわかった。冬晟ではなく、三城が出てきたのに違和感を持ったが、この姉妹への対応は彼が適任だったのだ。
──あれ……さっき、あの姉妹、僕が見えてた?
ようやく、いま気がついたが、そうだった。しかも、店から出てくる客も、護をよけていく。どうやら建物の外にいると、護が見えるらしい。
──じゃあ、中に入ると、霊が見えない人には見えないってことになる?
三城には護が見えない。面倒なことになるかもだから、ここで見ていよう……と、扉越しに見る三城は、新商品の説明や、今後の展開についてまでを、饒舌に語り出した。
「これまでは、ドイツ系のパンを美味しく食べる提案を続けていましたが、これからは、日本人本来の食生活に合ったパンに、見直しているところなんです。例えば、飼育方法に疑問があるレバーより、地元農場のチキンを使う。食材を地域の方々と連携していけば、皆と皆がつながってゆける。それが、これからのエアデの未来予想図なんです」
そんな話をされる『特別』に酔う姉妹は、子供達が飽きていても、お構いなしだった。が、やがて男の子の方がぐずり出す。
「もう、帰ろうよぅ~」
「ちょっと待って。静かにするって、約束したじゃない」
「はやくチョコのやつ、食べたい~」
「しょうがないわねぇ……そこのイートインスペースで……あらっ、なくなってる」
「今後、ちゃんとしたスペースを作る為に、撤去したんです。申し訳ありません」
「そうだわ、じぃじに電話して、店まで迎えに来てもらいましょう」
妹の方が、車で待っているという爺を召喚する間、三城は姉に、ここをレストランにするという構想について、話をしていた。
──あんな客に、そんな話をしていいのか? 冬晟が知ったら、怒るんじゃ……
それがわからない星名ではないだろうに、何故か彼女は黙認して……むしろ、いい宣伝になることを願っている様にも見えた。
──どういうこと……?
「失礼……中に入れて頂けませんか」
扉に張りついていた護に、また、うまく穏便を装っているが、苛立つ波動を漂わせた声が掛けられた。
「あ、すみませ……」
すみません、では、すまなかった──…
「伊東……さん?」
護の前にいるのは──六十に届くか辺りの年代の、裕福そうな男だった。歳の割に毛量のある、黒白半々の髪を櫛削り、身だしなみには余念がない印象だ。
この男が、三十歳若返ったら──かつて護が勤めていた郵便局で、先輩だった、伊東という男に、そっくり当て嵌まるのだが──
「ええ。●●郵便局局長の伊東ですが。……何処かで、お会いしましたか?」
郵便局の局長だと、あまりにも名乗り慣れていた。単に、そういう立場の身だから、あなたみたいな若者にいちいち覚えはありませんよと、やんわりと言っている様にも取れる。だが、抑えられない自負が感じられた。
そして、その両方共が正解だと思う。いまの護には、伊東から出ている生命波動で、彼の本心が、ありありとわかる──…
「局長……そんなところまで昇りつめたんですか。あんなことをしておいて……」
「ん? ……きみは?」
伊東の目に、鈍い光が宿る。護ははっとして、その場から離れた。
──やばい、僕だと、バレる……!
「待て、きみっ……!」
護は駆け出し、逃げた。不思議なもので、ちゃんと足を使って走っていた。
走り始めて、前の道路が拡張されているのに気づいた。以前は、車が一方通行にしか通れない狭い道だった。海水浴場に車で入るには不便で、多少遠回りになるが、反対側からの海沿いの道から来る時もあった。
やがて──子供の頃から来ていた海水浴場へ、これまた死んでからは初めて、辿り着いた。砂浜や岩の形に変わりはないが、陸側に護岸が整備され、様変わりしていた。
だが、いまはそんなことより──…
「伊東さん……あんな年になって、しかも、局長になっているって……」
時は流れましたな……では、済まされない。
護の喉に、苦い、異様な熱のあるものが通ってゆく。重さまで感じ──そんな毒の様なものを、護は飲みこんだ。
「……じゃあ、横領着服した罪も、結局……」
そう呟いた途端、喉がひりついた──…
☆
「じぃじ、パン、いっぱいあるよ! どれでも好きなの、好きなだけとっていいよ!」
「ははは、ありがとう」
エアデでは、●●郵便局局長である伊東が、孫ふたりに、すり寄られていた。そういう社会的身分であり、孫に好かれている好々爺の父を、娘ふたりも鼻高そうに見つめている。
「局長さん、こんにちは。局長さんのお好きなチキンサンドも、今日はまだありますよ」
星名がそう、心からの笑みで言う。八歳の時に父親を亡くした星名にとって、この伊東は、憧れの父親像なのだ。
「ああ、いえ、今日は──実は、歯の調子が悪くて……とても残念なのですが」
「まぁ、お気の毒に」
「ええー、お父さん、大丈夫? 土曜日の午前中なら、まだ、クリニックは開いているわよね。私、文句言ってあげる!」
「いいんだ、そんな」
それに──歯が悪いなど、口実だった。
伊東局長の胸には、いまさっき見かけた男への不気味な思いが渦巻いていて、美味しいパンなど、食べる気持ちになれなかったのだ……
☆
郵便局がまだ、国営だった、昔のこと──。
護が勤める郵便局に、目の悪い年配男性が来局していた。
視界の中心が見えないそうで、貯金の出し入れは局員が通帳を預かりながら手助けをする、などの対応していた。
行き帰りはタクシーを使うのだが、ここの局は前に車を付けることができず、以前、車道で事故に遭いかけたのもあって、車が来るまで局員が付き添うこともしていた。
山田という女性職員があたることが多かったが、護もよく、男性を送っていた。
そして、ある時──男性の通帳から引き出された現金が消えるという事件が起こった。いろいろ調べたが、原因は判明しない。
やがて、護がいちばん怪しいという噂が、何処からともなく立ち、まことしやかに流れ──男性は、警察に届け出さないと言った。
世話になっていた局員さんの出来心だろうから、まだこれから結婚して、将来があるだろうから不問にする、と──暗に、護が犯人だと認められた形になってしまった。
証拠はないのだ。だが、護がやっていないという証拠もない。
勿論、護はやっていない。護本人の意志は強かった。
だが、息子が客の金を盗んだという噂に、夫を亡くしたばかりで塞ぎ気味だった母親の心は、折れてしまった。
しばらく、県外に就職した兄の元に行くことになった。兄の学には当時、婚約者がいたが、このことで破談になるかもな、と、詰られた。無実だと訴えるも、家族なら信じたいが、自分が他人なら信じない、とも──。
……母を送り出した帰り、その新幹線駅で、同じ局で働く先輩女性の山田に遇った。彼女も友人を送りに来たところで、同じ方角だから送ってあげると言われ、護は車に乗った。
それから──しばらく、記憶がない。
気がついた時には…………重苦しい雰囲気が足元で渦巻いていて、見下げると、葬式が営まれていた。
小さな祭壇に掛けられている、黒枠に囲まれた遺影は──自分の写真だった。
「発見が早くて、損傷はひどくないらしいんだが、死に方が死に方だからか、お棺の中は見せてもらえなかったよー」
どこか、はしゃぐ様な声がして──見ると、やはり、職場の先輩の伊東だった。
彼は話題の中心にいたがりで、こんな風に声高な調子で話す。黙っていても十分、目を引くルックスなのに……常に注目されたいタイプの男だった。
そんな彼を、静かに睨んでいる者がいた。兄の学もだが、もうひとり──北谷斗眞だった。
目の縁を赤くして、本心から護の死を悼んでいる様子で、じっと堪えていた。ハイスペックそうな美形の男のそんな姿は、誰の目にも印象的だった。
学の目にも、そうだったのだろう。──弔問客がいなくなった時、彼だけが、棺の蓋を開けてもらっていた。
『客の金を盗んだのは自分です、ごめんなさい……』
そんな書き置きをして、町の景勝地である下滝に身を投げ、溺死したという、本條護の死に顔を見せられて──取りすがって泣いていた……。
──先輩、泣かないで。盗んだのは僕じゃないし、自殺じゃない……!
護は叫んだが、垂れ流しの映像に向かって言っている様なものだった……
☆
『護は、絶対に、やっていない、』
父、斗眞が、この件に関して書き付けた中で、おそらく最後に書かれたものと思われる文字は、ことさら強い筆跡になっていた。
事務所兼居間で冬晟は、父の遺品である書き付けに、あらためて目を通していた。
筆跡と言えば──まず、護の遺書の筆跡がおかしいと、斗眞は指摘していた。昔、護にもらった年賀状を一緒に添えて、『す』『め』などの筆跡が違うのだと書いてあった。
だが、筆跡が違うぐらいで自殺ではないとは、冬晟ですら、弁明には弱いと思った。
盗まれた額は、約四十万円──如何にも遊ぶ金欲しさみたいな、微妙な金額だ。護くらいの年の局員がつい手を出しそうだと、それで思われたのかもしれない。
だが、護の郵便貯金通帳にはおろか、銀行の口座にすら、不審な入金記録はなかった。逆に、ぱっと使ったのだとしたら、物にせよ行動にせよ、証拠が残るだろう。盗んでいない証拠は出せなくても、使っていない証拠は出せる筈だと、斗眞は本條家に提案したが、だったら何故、自死したのかと、返されてしまったらしい……。
斗眞は、護は真犯人に罪を着せられて、滝に落とされたのではと、疑っていた。だが、護が沈んでいた滝の縁に、突き落とされたら付く筈の、足が擦れた跡はなかった。自分から飛び降りたのが、明白だった。
どうやって滝まで来たかは不明だが、護は車を持ってないから、おそらく歩いて……死に場所を探して。遺書も用意し、最後に睡眠薬入りのコーヒーを煽って、滝に落ち、溺死した……で、済んだ事件だった。
──横領犯の自殺だと、ちゃんと捜査されなかったのかも……
ちゃんと調べれば、睡眠薬を飲んだ時間も正確にわかるだろうに。本当に、滝に落ちる前に飲んだのか、それより前に飲んだ……飲まされたのかで──全然、違うはずだ。
「護さん…… 俺も、護さんは、真犯人に陥れられたんだと思ってる」
誰も近くにいない、聞いていないが、冬晟はあえて、声に出して呟いた。
が、本棚の向こう側に突然、人の気配が降って湧いて、冬晟は驚き、そちらに回った。
「護──…」
護が立っていた。
白いシャツがずぶ濡れになって、肌まで透けていた。小さな乳首まで見えるほど……顔色がひどく青白く、如何にも冷たそうだ。
滝で死んだ、沈まされていた護の想像をしていた後だけに──そこから舞い戻って来たのかと……一瞬、考えてしまった。
「……海水浴場、行ってきた」
「えっ? ……海?」
「久しぶりに行ったから──泳いできた。水着なんか持ってないから、このままで。あはは、霊でも、ずぶ濡れになるんだな」
護から滴る水で、床まで濡れていた。雨の日に、タクシーに乗った女が突如消えて、シートが濡れていたという怪談があるが、あの現象と同じだった。
それにしても──濡れそぼった護は、何かぞくっとさせる。本当に幽霊っぽいと言うか……それで、このままではよくないと、冬晟ははっとした。
「護さん、シャワーを浴びたら? 一階の、階段下の戸口から入って奥にあるんだ」
「……そう、みたいだね。使ってもいい?」
ここが郵便局だった頃、奥に男女別トイレがあった。その片方をシャワールームに改装したのだ。護の霊的な目には、それが見えているらしい。
「あ、でも……勝手にシャワーの湯が出てるって、騒ぎにならないかな?」
店はまだ営業中だ。今日は星名以外のスタッフもいるし、そうなるかもしれない。……冬晟は言った。
「気のせいとか、簡単に丸くは収まらないだろうな」
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