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五 この世に生きる喜び そして
突然だが、護は、ものが食べられなくなってしまった。
霊だから、困ることはないのだが──冬晟は落胆した。
「俺の作ったパンが、食べられないのか?」
せっかく、護に食べてもらえる機会が出来て……もっとパンを、と思っていたから。
「そんなわけないだろ……なんか、喉がヒリヒリするんだよね」
それならいいが──いや、よくない。護は顔色も悪く、最初の頃の元気がないのは確かだ。
「護さん……最近、何かあった? 変わったこととか」
「変わったこと? ……一昨日、海に行ったな。そこで泳いだ。──まさか」
「ん……?」
そう言われてみれば──ずぶ濡れで戻ってきた時の護は、何か様子がおかしかった。
本当の幽霊みたいで……ぞくっとした。
「海に漂う霊に、とり憑かれたのかも……」
「そんなことがあるか……?」
霊に霊がとり憑く──そんなことがあるかはともかく、もし、そのせいだとしたら、一体どうすれば……
「だとしたら、どうすれば祓えるんだ?」
「元の場所に戻せばいいんだと思う。……行ってみようか?」
今日は月曜日──エアデは休みだ。だから冬晟も、仕事をしないで、いる。
「……行ってみるか」
夕方からは、明日のパンの仕込みがあるが、それまでなら時間は自由だ。冬晟はラフな綿シャツとチノパンに着替え、護もそれに合わせた色違いの格好になり、外に出た。
歩いて──ふたりの足だと十五分くらいで、海水浴場に着いた。
「八月も終わり──夏の終わりってかんじだな……」
何を見て、そう思うのかわからなかったが、冬晟はそう、呟いた。
「いま、八月終わりなんだ?」
「そうだが……知らなかったのか?」
「生きてる人みたいに、生活してないから」
「……それもそうか」
それから冬晟は、早く憑きものを海に返せと促した。護は波打ち際へ歩み出て、ちゃぷちゃぷと靴を濡らした。
「それだけでいいのか?」
「もう、服とか濡らしたくないし」
外にいる時、何故か護の姿は普通の人間にも見えるらしく、ちゃんと影も映っている。だから、人目につきたくない様子だ。
そんな護の表情が、やっと明るく戻った気がして……冬晟は、ほっとする。
──何か、あの時の護さん……本当に、よくない霊みたいだったから……
護は、自分で納得してさまよっている霊だから、いいか悪いかで言えば、いい霊なのだと思う。
逆に、そういう自覚がないか、何か恨みがあって漂っている霊は、悪霊と呼ばれる部類なのだろう。そういう悪霊は、ものを食べたりしなさそうだ。いまので祓えたのなら、護は元通り、食べられる様になったはずだ。
冬晟より前を歩いていた護は、やはり復調したらしい。──急に、こんなことを言い出した。
「あれ──この近くに蕎麦屋があるの?」
砂浜の先、松林を抜けた道路沿いに、木の看板が出ていて、『蕎麦やってます』と、墨たっぷりの毛筆で書かれていた。
「そう言われてみれば、トンネル向こうに、移住者がやってる蕎麦屋があったな。……俺も移住者だが」
「──なぁ、行ってみない? 僕、蕎麦が大好きなんだ。パンはダメでも、蕎麦なら食えるかも」
「って、おい!」
冬晟は、ひどく心外だと思う言葉に眉根を寄せながら、浮かれ足で向かっていく護を追った。
トンネルを抜けると、そこには──蕎麦屋があった。
が、店の前の道路に、工事用の赤いコーンが並べられており、『この先土砂崩れ 通行不可』と、出ていた。この道は海水浴場に来れる反対側のルートなのだが、そういうことで、いまは通れなくなっているらしい。
因みに──護が沈んでいた滝があるのも、この道の先だ。
冬晟は先日、献花に行ったのだが……その時は普通に通れた。いつ、土砂崩れなど起こったのだろう?
怪訝に思っている冬晟を、気に留めることもなく護は、店に入って行った。
頭の中が蕎麦でいっぱいなのだろうか? 自分の終焉の地がいくらか近い場所で、まったく気にしていない様子だから──やはり護は、自殺をしに滝に行ってないのだと思う。
そんな確信を持てて、冬晟は気を取り直し、護に追いついた。
「いらっしゃいませ……あら?」
店に入ると、蕎麦屋のイメージに反し、若い夫婦がやっていた。接客担当らしい奥さんが、冬晟を見るなり、少し不思議そうな顔をした。護も、それに気づく。
「どうしたんだろう?」
「近所のパン屋だって、顔バレでもしているのかな……」
やがて、水をふたつ持ってやって来るが、「パン屋の方ですよね?」とは、ならなかった。冬晟も、今回初めて経営者の顔を見たくらいなのだし、お互い、その程度の関心なのだろう。
「でも、よかった。水がひとつじゃなくて」
「大丈夫。ちゃんと、見えてるから」
品数を絞り込んでいるらしく、品書きには5種類しかなかった。護は『もり』を、冬晟は『田舎』という蕎麦を選ぶ。蕎麦だけでは寂しいので、季節の野菜天婦羅盛り合わせも注文した。
「炊き込みご飯はないのか……残念」
「蕎麦以外は天婦羅しかないからな」
蕎麦だけで勝負したいのか……何処か自分の店の方針と通じるものを、冬晟は感じた。
看板の品を美味しくする努力はするが、別のものを足して、飾り立てる様なことはしたくない……この店も、そうなのだろうか。
でも、まさか、いまから手打ちしているのでは……と、心配になった頃に、蕎麦が出てきた。そうなると、思ったよりは早く出てきてホッとする。そして、肝心の味は……
「ウマっ、うわ、久々に喰うけど……蕎麦、旨いっ!」
護はそう言って、単に腹が減っている中学生の勢いで、蕎麦を平らげていった。
自分のパンを食べてくれ、腕がいいと言ってくれた護が──こんなに蕎麦を喜んでいるのは複雑だが、元気そうな彼を見るのは嬉しい。もっと喜ばせたくなる。それで……
「護さん、こっちも食べてみる? 田舎」
護の『もり』より濃い色の太い蕎麦だった。素材の味が、より、しっかりしていて……
「何か……冬晟の作るパンと似てるなぁ」
護はそう言って、吞み込んだ後に複雑そうな表情をしていた。
「……食べにくいか?」
たまに、エアデのパンに、「もっとふわふわがいい」「よそのパンより酸味がある」など、客から意見されることがある。
ドイツパンは、日本の一般的なパンより、硬めだったり酸味がある。そういう麦などの素材で、作ったからだ。だからこそ、うちはこういうパンというものを作り続けて納得してもらうか、新しい食べ方を提案する努力をしてきた。
自分は、その素材から導かれるはずの、間違いのないパンを作りたい。信じるやり方で、美味しいと思ってもらいたいし、食べてもらいたい、それで人の心や生活を幸せにしたい。
商売としては、狭くて頑なかもしれないが、間違っているとは、冬晟は考えたくない……
だが、義弟の三城貴仁の意見も、間違いだとは言い切れなかった。──彼の言ったことが気に障っているのは、まるで的外れではないからだ。あの男なりに、エアデの行く末を考えると、『もっと広い商売を』となるのだろう……。
冬晟が目の前の蕎麦から、そこまで考えを広げていると──同じく目の前にいる護が、
「うちのじいちゃんなら、好きだったかも。……うち、親子三代、蕎麦喰いでね」
と、そんな狭い世界の話を始めた。
「子供の頃、じいちゃんが認めて、父さんも唸る蕎麦屋に通ってたんだけど、そこ、本格的過ぎて──学校でも行ったことあるの、僕ぐらいだった」
それだけ聞いただけで、なんて渋い一家だろうと、冬晟は思う。
「その店には炊き込みご飯があって、それがあるから、何とか蕎麦も食べれてた。硬くて、独特な味があって、子供の口には重かったんだ。……蕎麦の風味とか、手打ちの弾力とかだったんだろうけど」
「かもしれないな」
「何処でも食べられる、やわらかくて甘いつゆの蕎麦の方が旨いって、言ったことがあるんだ。そしたら、じいちゃん、「何処でもあるものと、其処しかないものの差がわかるまで、他所の蕎麦を食うな!」……だって。難しくてわかんないけど、すっごい怒られた!って思った。ホント、子供には荷が重かった」
本條家は四角い顔の一族なのだと、付け足している。頑固者の血筋だと、強調したいらしい。
「でも、護さんは、丸顔だよね」
「そう。だから、子供の頃は、実はもらい子だって、兄貴に何度もからかわれて泣かされてたなー うちは、兄貴が両親に信頼されてて、僕は泣かされても、わりと放っておかれて……おかげで我慢強くなったと言うか、逆に頑固になったかも」
「どんな風に?」
「自分が正しいと思う、守りたいことは、絶対に曲げない、とかね。勿論、自分が思う通りにすることだけがいいわけじゃないから、我慢するべき時は我慢する、みたいな、そういう頑固に……」
「……そうか」
護の生前のことはわからないが、自分が見て知る限り、目上の人には先輩と呼ぶべきとか、頑固なところがあるかもしれない……
そして、そういう性格なら、『濡れ衣を着せられて死んだ』ことに、かなり悔いを持っていそうだ。
──護さんが、さまよっている理由は、やっぱり、それ、なんだろうか……
「冬晟も、そういうところ、ない?」
「……えっ」
急に、そう話を向けられて、冬晟は内心で少し慌てた。だが、すぐに、
「そうだな。──自分が、こうだと思うパンしか焼かない」
と、返すと、護は満足げに、丸顔の中のどんぐり目を細めた。
その目、顔、そして護を見ていると──やっぱり、自分は護のことが好きだと思う。
ずっと、動かない写真だけを見ていた。だから、想像していた通り、それ以外の護を目の当たりにしている。自分のパンが美味しいと言ってくれたり、蕎麦の方が好きと言い出したり──その度に、胸が揺り動かされる。
それに、いまの話を聞いて思ったが、自分達は似ている、気がする。単に頑固キャラという意味でなく、信念を守る為に、何処か不器用に生きてきた……生きていた、ということが。
そして、パンで不特定多数の誰かを幸せにしたいと作ってきたが、初めて、この人にパンを作れることが幸せだと思った。逆に幸せにされているのだ。
こんな人は、この世で護しかいない。いなかった。
……なのに、やはり幽霊なのだと、はっとさせられたり、護は急にふっと遠ざかろうとしたりする。
失うかもしれないのが、怖い。幸せだから、だ。
──いなくなって欲しくない。ずっと一緒にいたい。……もっと傍に、いて欲しい。
護のことを、どんどん、好きになっていく……
★
護は口を、冬晟は心も満腹にさせて、蕎麦屋を出た。
海水浴場まで戻ったところで──護は、今度は、『日帰り入浴』の旗を見つけた。道路を挟んだ山側に、昔からの宿泊施設があり、その入口付近に出ていたのだった。
「ここって、昔は泊まる人しか入れなかったけど、日帰り入浴ができるんだ。……冬晟、風呂に入ってかない?」
「はい?」
さっきの蕎麦もだったが、更に唐突だった。よくこうもポンポンと、行ってみようやってみようと思えるな、と……
「冬晟のところ、風呂がないだろ! たまには湯船に浸かって、疲れをしっかり取らないと、いいパンは焼けないぞ!」
護は自分だけでも入る勢いで、玄関に向かっていった。
「ちょっと、護さん、あんた、お金持ってないのに……」
それで、蕎麦は冬晟のおごりだった。今度は入浴料まで払わされるのか……
「まぁ、確かに……たまには風呂も、いいか」
護にふりまわされ、財布を開けるのも、久しぶりに風呂に入るのも悪くない……むしろ、これも幸せ。そう、ひとりごちて、冬晟は護を追った。
ここの風呂は、近年の大型施設などに比べると見劣りはするものの、ジェットバスも薬草湯も備わっていて、まあまあだった。天然温泉なら言うことはなかったが……
「あー、極楽極楽」
護は颯爽と素っ裸になると、手早く体を洗って、内風呂の浴槽に浸かった。
「護さんに言われると、何か、洒落にならないな……」
冬晟は几帳面らしく、まずは丹念に体を洗っていて、護に遅れを取っていた。だが、早くしないと、護は屋外風呂に行ってしまう……急いで洗髪も済ませ、追いかけた。
硝子戸の向こう、岩で組まれた屋外風呂で合流する。温泉ではないので、ただの湯に、護は足を入れたところだった。開放感からか、タオルで前を隠してなくて、揺れる男のモノを、ばっちり目撃してしまった。
護は、「あ、しまった」という顔をした瞬間、冬晟の裸、下の方に目を向けた。……冬晟は、ちゃんとタオルで隠していた。
「あは、僕のだけ見られたか~」
湯の中で、護がぱしゃっと前を隠す仕草をする。……もう、遅いのだが。
ゆらゆらする湯の中で隠されたそこは……そんなに隠し切れていないのだが、冬晟は見えていないフリをした。
護はもう、何も気にしていない様子で、
「はぁ~ 蕎麦も喰って、風呂にまで入れて……このまま成仏しちゃいそうだなー」
と、心の底から幸せそうな顔で、言った。
「……本当、洒落に、ならないな」
冬晟は内心、ぎくりとした。
護が、このまま成仏してしまう──霊的には、天にも昇るくらい幸せなことなのだろうが、冬晟には、「成仏するのは、まだ早い!」と、叫び出したくなることだった。
──まだ、思い残したこととか、あるんじゃないのか。……それに、俺はまだ、護さんと──抱きしめたり、キスも、していない。
ゆらゆら揺れる、裸を見たせいか──そんなことを生々しいことを考えてしまっていた。冬晟にとって、護は霊ではなく、いまそこにいる愛しい人だ。
「あー、もう、夏も終わりだもんなー」
護は特に意味もなくそう言って、海の方へと体を寄せた。夏の終わりの海、を、見ようとしたらしい。湯の波間に尻の島が浮かび、冬晟の目の前を、するりと抜けていった。
……もう、我慢がならなかった。
ぱしゃん、と、激しい音がして──その後、大きな湯の波が立った。
護が、湯の中に落ちたのだ。冬晟に背後から急に掴まれて、その際に体を滑らせたのだった。護はとっさに岩に手をかけ、冬晟からも体を掴み起こされて、何とか無事、生還?……する。
「あっぶな……本当に成仏するところだったぁ!」
夏の終わりだという海に背を向け、湯まみれになった顔で、護は冬晟を見咎めた。……冬晟はじっと、護の胴体に両手を添えたままだった。
「……どうかした?」
「護さん……わりと、幼児体型なんだな」
護は、図星を指されたみたいな顔をした。
「そりゃ、モデル体型な冬晟に比べたら……純・日本人体型だよ! 蕎麦喰ったばっかで、腹も出てるしな」
湯の中で腹をポンと叩こうとするが、水圧に阻まれた。そして、手元が狂い……何か硬いものに触ってしまう。冬晟と自分との間に、何かあったのだ。──やがて、人間の器官だったと、湯の上から視認できた。
それは屹立した、冬晟のペニスだった。自分が触ったものがわかって、護はひどく慌てた。
「ご、ごめん……っ」
よりにもよって、そんな状態になっているものに触れてしまうなんて──だが、何故、いまここで、冬晟のものは、その状態に……?
「……っ?」
冬晟の体が、近過ぎるほど近くなってくる。最早、湯の中で正面から抱き合っている、くらい……
「俺は──護が好きだ。このまま成仏して欲しくない」
「……」
「気の済むまで、さまよっていてもいいって言ったよな? だったら、霊でもいいから、俺の傍にずっといてくれ……護が好きなんだ」
「──冬晟……」
さっき、呼び捨てされて……冬晟はそのままずっと、護と呼び捨てにしていた。そうさせてしまう何か、誤解させる様なことを、自分はしたのだろうか?
不意に、北谷斗眞とのことを思い出し──心に翳がかかる。
──先輩は、僕が慕って大学を追ってくると思ったから……自分で言うことじゃないけど、僕に好意を感じてくれたんだよね。勘違いさせたこと、それで傷つけたんじゃないかってことが、生きている間、ずっと心に残ってて……
そんなつもりじゃなかった。こんなはずじゃなかった。この世で唯一ぐらい、自分を見てくれていた人だったのに──なら、生きている時に、会いに行けばよかった。
それに──例えば、こんな風に名前を呼び捨てにされるとか……自分の信念を通すだけじゃなく、もっと他人を受け容れるとか、そういうことをすればよかった。
──もっと勇気を持って……好かれることを受け容れたら、よかったんだ。
そして、もし、また会えるなら、こう言いたい。
「僕も、先輩が好きでした。……遠い憧れの星みたいにするんじゃなくて、近くに来た時に、手をのばすべきだった。だけど、先輩の輝きはいまでも消えてないから──死んだ後の真っ暗な中で、僕を導いてくれたんだと思う……」
そうして──斗眞が遺した写真や書き付けを入口にして、冬晟がいる世界に出られたのだと──そう思った護は、更にハッとする。
目の前にいる冬晟が、いま、自分を呼んでいる。今度こそ、名前を呼び捨てにされ、愛されることも受け容れないと……ここにいる意味も、来た意味もなくなる。
「──冬晟。……ありがとう。大丈夫、少なくともいますぐには、いなくならない」
「いま、すぐには……?」
「──こうして、いまの世で楽しいことができているんだ。パンを食べたり、蕎麦を食ったり、こんな風に風呂にも入れて……だからもっと、冬晟の傍にいさせてくれよ」
「それは……俺のことが好きだからだと、そう受け取ってもいいのか?」
傍にいたいと言ったのが、そういう意味のつもりだったが……冬晟は、詰め寄ってくる。恋愛なら当然だが、護には不慣れで──だが、こうして困惑するからこそ、自分が逃げてきたことだとわかる。
今度は──勇気を出して、伝えないと。
「──好き、だよ。出会って何日も経ってないのに、こんな簡単に言うのも何だけど……でも、もう、生前にした失敗はしたくない」
「それは本当に、俺のことが好き、なのか? ──父さんのことを気にして、言っているんじゃないのか」
「……え」
冬晟は、斗眞とはまったく別人だ。
父子と言え、殆ど似ていない。目も、性格も、生き方も…… 護への思いを共有しているだけ──だが、間違いなく、斗眞の意思を引き継いだ人間だ。
こんな自分を見守ってくれる。一緒にいたいと思ってくれる。……それに、自分の信念のパンを食べさせてくれる。とても美味しくて、力のこもったパンを。
そんな冬晟が、好きだ。本当に好き、だ。
護は顔を上げ、しっかりと告げる。そうするのに、勇気など要らなかった。
「冬晟は、別人だよ。ちゃんと、冬晟という人間として、好きだ。……男として、どうっていうのは、ちょっとまだわからないけど」
湯の中にある下半身の器官は、冬晟のまっすぐな恋慕を示す様に、屹立したままだった。それを、グッと押し付けられている。純粋な熱意だと思う反面、性的な煽りにも感じられて──護は緊張する。
「護……」
冬晟は、いよいよ覆い被さってきた。生身の肉体を体感する──寸前に、護は湯の中で逃れた。腰に剥き出しの岩がゴッと当たる。
「冬晟、ごめん……こういうのは、ちょっと、まだ──っていうか、冬晟の言う好きって、こんな風になる意味で……の?」
「好きな相手に近づきたい……体を繋げたいと思うのは、当たり前だろう?」
「うぅ……」
やっぱり、そうか──だから、冬晟の体はこんな風になっているのかと……護は、霊的に岩をすり抜けて逃げたくなるが、冬晟に体を掴まれていて、叶わなかった。
冬晟は、キス……するみたいに、顔を近づけてきた。護にとっては初キスにも関わらず、その予想は当たった。
──死んでから、これがファーストキスなんて……
その相手が冬晟で、本望だと、瞼を引き攣らせながら思う。睫毛の先に、冬晟が触れていた。それほど近かった……。
好かれることを受け容れるというのは、こういうことなのかと──キスよりも、そのことの方に胸が昂った。
そうやって冬晟に集中していながら、護は他の気配を敏感に察知した。硝子戸の向こうに、人がいる。先程から、いたことはいたのだが、自分達を訝しんでいるのが伝わってきた。……こんなことをしているから、だろう。
「と、冬晟、人が……」
唇が少し離れた瞬間、護は口早に言った。冬晟は背を向けているから気づいていないが、内風呂にいる客が、こちらを見ていた。
「関係ない」
「だっ、だめだよ、こんな場所じゃ」
「……」
確かに、店を出している近所で、騒ぎとか噂になっても困る──仕方なく、冬晟は護から離れるが、その身の中心は強張っていた。必死に抑えているが、最早、収められる状態ではなかった。
「冬晟……外で出せっ。僕が被さって、隠すから!」
急いでふたり、岩風呂から出る。排水溝にうずくまる冬晟を、護が体で覆い隠した。
「……っ」
見るつもりはなかったが──護は、見届けてしまった。男のかたちの先端から吐き出される、白濁色の飛沫を…… それが、冬晟が覆っていた手から洩れ、自分の顔に、かすかにかかった。とろっとした温かいものの感触に、護は思わず、身を震わせてしまった。
「……ごめん」
冬晟はそう謝って、傷ついた様な目を上げていた。いつだったか、傷つくことなど知らない、強い目だと思ったのに──そんなことはないのだ。護は慌てて、
「だ、大丈夫……びっくりしただけだから」
桶で湯を掬って、自分と冬晟にかけた。そうして、何でもないことだと振る舞った。
「ただ、生身のものって、久々に感じたから──なんか、驚いて」
この言葉は本当だ。もう、忘れていた──体を持つ人間としての現象……。
護は、かすかに震える手で、足元にも湯を撒いて、冬晟の白濁を流した。自分が否定されてゆくみたいだ──冬晟はそう思って見つめていた床に、水滴が落ちた。ここは屋外なのに?……と、怪訝に思い、見上げると、顔を真っ赤にして泣く護がいた。
「ごめん、そんなにいやだったのか」
「ち……違うんだ」
今度は、護が冬晟の体を掴んだ。冬晟の若い体に、短めの指をしっかりと絡める。そこにも、生きているからこその様な、微熱が生まれていた。
「う、嬉しい……何か嬉しいんだ。初めて、キス、したり、生きていた時に感じられなかったことを感じられて──生きてるって、こういうことだったんだって、思って…………もう、僕は霊なんだけど」
……と、言ったところで、硝子戸が開かれた。いよいよ内風呂にいた客が、出て来たのだ。しかも、最後の言葉は聞かれた。
隠すべきものを剥き出しで向かい合って、変なことを言っているふたりを──ひどく、気味悪そうな目で見られる。だが……
「死んだから、受け容れられるんだ……これから、どんなことも受けとめられると思う」
護はそう、言い切った。どうしても、そこまで伝えたかったのだ。
勿論、冬晟に向けてだったが──見知らぬ客の男はいっそう、不気味がる顔をした。
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