六 そこにいかせない 一緒にいきたい

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六 そこにいかせない 一緒にいきたい

 海へ行き、蕎麦を食べ、そして風呂……と、  出る時には思いもしなかった場所を経て、護と冬晟は、元郵便局パン屋の建物に帰って来た。  昼を過ぎると、『エアデ』の入口は日陰になる。朝の陽光に晒されている時とは、印象の変わった玄関の前に、護らは立った。  営業していない店の硝子窓は真っ黒だ。そこに……風呂でキスなどして、ふわふわしたふたりが映っている──と、思いきや。  日陰だから、だろうか? 何か翳りのある、自分の顔が映る。  ──僕、こんなに暗い顔、してるのか?  そんな自分の向こう──真っ黒な空間に、昔、そこであった光景が見えた。  ──えっ。どうして、そこに……?  護は驚いて、中をぐっと覗き込んだ。  ここがまだ、郵便局だった頃──葉書を出す母親と一緒に来た時のこと……護が小学生になっていないぐらい、だった。  窓口へ行き、「きって4枚ください」と、買物のお手伝いをした。すると、 「自分で、貼れる?」  と、言われて、切手と糊をもらった。  実は、前から自分でやってみたかったが、母親にさせてもらえなかった。やっとやらせてもらえると、がんばって貼るが──上下があると知らずに反対向きにしてしまう。が、その局員さんは、 「貼ってあれば大丈夫、ちゃんと届くから」  と、優しかった。  窓口からでも出してくれるが、護は外のポストに落とすものだと信じていた。自分で初めて切手を貼った葉書を、意気揚々と投函しに行くと、丁度そこに、腰の曲がったおばあさんがいて── 「ぼく、悪いんだけど、これも出してくれない?」  大きめな封筒もあって、子供にはなかなか入れにくかったが、投函できた。  おばあさんにも、局の人にも、「ありがとう、親切な子だね」「えらいね、すごいね」と、誉められた。当然、母親にも……  自分は、親切な人にも、えらい子にもなれるんだ。そうすれば、いつもは兄ばかり誉めるお母さんにも誉めてもらえる。──そうだ、大人になったら郵便局員さんになろう。  その時に、そう思ったことを──護は突然、思い出した──…  ──他人に流されて決めたと思っていたけど、子供の時に、自分でもなりたいと思っていたんだ……  流れ星に願ったことも、過ぎてしまえば忘れてしまう。  そして、夢を掴んで、しっかり握っていても……ふとしたきっかけで、失ってしまう。  自分は、ある男の悪意によって……  そのことを──目の前の景色が突如、黒く塗り潰されてゆき、否応なく思い出さされる。 「……!?」  暗黒空間に引き込まれたみたいになって──何も映せなくなった真っ黒な瞳で、一昨日、ここで出遭ったものごとを、護は見る──…                  ☆ 「……一昨日、ここで、前に勤めていた局の、先輩だった男に出遭ったんだ」  護は暗澹たる気持ちで、その時のことを話し始めていた。  が、冬晟は、キーケースを取り出していて、護の方を見ていない。どれが店玄関の鍵か、迷っているのだ。 「伊東さんっていう人で──局長だって、名乗っていた」  冬晟は、これと思われる鍵を鍵穴に差し込み、回した。当たりだった。ようやく、 「その話は、中に入ってじっくり聞こう」  と、護に言うが、冬晟はふと、足を止めた。 「伊東って、●●郵便局の局長の?」  護は、こくっと頷く。そして──… 「あんな、ずるい人が──のうのうと生きているなんて……やっぱり、ずるい」  護の顔に、日陰だからだけではない、異様な翳りがあるのに気づいた。変に思い、冬晟は戸を開け、早く入る様に促した。  そこで、不意に──。  ──? ……匂いが、おかしい?  普段、冬晟は店の玄関から出入りすることはなく、裏の従業員用口から入る。いまは護につきあって、店玄関から入ったのだ。──そうして初めて、店内の匂いが以前と違っていることに気がついた。  だが、いまはそれより──… 「もう、孫までいるんだね。あの姉妹が娘? じゃあ、奥さんは誰? ……まさか、山田さんじゃないよね」  護は、やはり変な顔つきで喋り続けていた。 「いや、俺はそこまでは……でも、奥さんは地元名家の令嬢だったとか、聞いた様な」  星名が、伊東局長のファンで、そんな話をしていた覚えがある。 「じゃあ、山田さんじゃない。……やっぱり、利用しただけだったんだ」 「護……?」  護の目は──真っ暗だった。もともと黒のどんぐり目だったが……艶消しをかけたみたいに、無機質な闇の塊になっていた。 「伊東を……しに、行かないと。僕は、本当はずっと──だから、『さ迷って』、いるんだ」 「どうしたんだ、護?──何か、おかしいぞ」 「……どうして、僕の名前を呼び捨てにする?」  いよいよ、おかしいと思う。  今更、そこ触れるか?──だし、さっき、お互い好きだと伝え合い、キスまでした間柄ではないか…… 「僕は、きみのお父さんと一歳しか違わないんだよ……生きていたら、六十歳近い、おじさんなんだ。ちゃんと、苗字で呼ばないと」  明らかに変だ。護は最早、こんなことを言うはずはない。 「今更、そんな他人みたいに、呼べるわけないだろう」  その返事に、護は顔をしかめて、宙に浮き上がった。慌てて冬晟は、護の身を取り押さえる。 「離せ。何を勝手に、他人の体に触って……」 「護っ、何処にいこうとしている?」 「……離せ。思い残したことの、決着をつけにいくんだ」 「思い残したこと?──そんな、怨霊みたいな顔になって、何を決着させようとしているんだ? 一体、どうしたんだ!」 「……」  怨霊みたい……その言葉は、闇に呑まれゆく護の心に、ビシッと小さなひびを入れた。 「怨霊──なんかになりたくないから、何年も、何十年もずっと、さまよっていたんだ! ……だけど、どうしたらいいのか、わからない……わからない!!」 「──護?」  ……おかしい。護らしくない──ではなく、これが本心の護なのだろうか? 冬晟は少し黙って、護を見つめる。 「僕が死んだのは、そう──伊東さんのせいで……なのに、あの人は僕の葬式にも、のうのうと現われて……そこには北谷先輩もいて、泣いているのを見て、すごくすごく──悔しかったんだっ! 僕は自殺なんかじゃないし、お客さんの預金を横領したりもしていないって、伝えたかった!! ──けど、死んじゃったら、もう、何も言えないんだ……」 「……いま、言えてるじゃないか」 「言えた……けどっ」  冬晟は護の両腕を取って、護を引き寄せた。まだ浮き上がってはいるものの、生身の人間らしい重みを感じる。しかし、綿シャツ越しの体は死人の様に硬く、温もりも感じなかった。──護はまだ、よくない状態なのだ。  冬晟は、護を元に戻そうと── 「護……言いたいこと、全部、話してくれ。俺が聞くから。全部、俺が受けとめるから」  必死に、言葉を選んで、そのひとつひとつに思いを込めた。どうか、怨念など持たないで……元の護に戻って欲しい。 「護の声、言葉は聞こえなかったけど、俺は、それに父さんも、護が何を思い、言いたいか、ずっと考えていた。護の声を、言葉を聞きたい人間はちゃんといたんだ。だから、聞かせてくれ」  冬晟はそう言って、護をもっと近くに引き寄せ──覗き込んで見た護のどんぐり目には、自分の姿が映っていた。  瞳がじわっと潤んで、そこにいる自分が、いまにも零れてゆきそうだった──。 「……く」  護は、唇を「く」の字にして、苦しそうにしたが、何とか言葉を続けた。 「く、……悔しかったんだ。何を言っても、伝わらない──もう、届かない。あきらめるしかなくて……あきらめれば、次にいくべき場所にいくことができる、そうすれば楽になれるのはわかっていたけど──できなかった。……いっそ、恨めたらよかったけど、怨霊には、なりたくなかった。怨霊になれば、伊東さんに悪影響を与えることはできるけど、それをやったら、僕はずっと怨霊でいることになるから。……ただ、気の済むまで、さまよっていることはできるから、そうするしかなかった。でも、それでいいのか、このままでいいのかわからない。だから、さまよってる。迷ってるんだ──…」 「……護」  冬晟は、護の頭をそっと、自分の胸の中へ抱き込んだ。石鹸の匂いが立ち昇って、さっき風呂場でキスをした記憶が甦る──。 「ずっとさまよって……言いたいことも言えずに我慢してたんだな。護は、えらい。強いよ。──ありがとう、怨霊にならずにいてくれて。おかげで、俺は護に逢えた」 「──冬晟」  正直……それは冬晟の言い分だ、それだけでは、この暗黒空間から抜け出ることはできなかった。そう思い、そのことに気づいたそばから、護の体はまた、ぐっと重くなった。見えない怨霊の腕に、引っ張られているみたいに── 「護っ!」  護が重くなるのを、冬晟も実感した。どんなにこうして体を抱き、掴んでいても、護を救えない焦燥を感じた。 「護──いくなっ、そこ、じゃない!」  もう、必死に叫ぶしかなかった。その瞬間、ふっと護が浮き上がる。護は、薄く目と唇を開いて…… 「……そこじゃない?」 「そこにいっちゃダメだ。そこに──何があるのか、見てみろ……!」  ──そこに……  護はそっと、そこを……闇の底を見た。  これ以上、深く濃くなり様のない暗黒が渦巻いている中──冬晟が「怨霊になるな」と言った時に入ったひびが、いまだ閉じずにあった。  そして、よく見ると──ひび割れたところから、ちかちかと輝く、小さなものが零れ出していた。  やがて、その切片が、星を細かく砕いたみたいな……ひどく美しいものに見えてきた。  ──きれい、だ。星、みたいな…… そうだ、僕が行きたいのは、こんな風に星が見える場所だ。真っ暗な空間になんか、いたくない。もう、いたくないんだ──!  そう、心から思えた時──そこから瞬く間に、生きている時に眺めたのとは違う、星空が広がっていった。 「わぁ……あ……!」  護は思わず、感嘆の声を上げた。  暗黒空間で、恨みと唸り以外の声を出すのは不可能だから、ここはもう、さっきまでとは別の空間に変わっている証拠だった。  その中で、名も知らぬ星が、ひときわ輝く。その向こうから、自分を呼ぶ声が聞こえた。  ──護……。 「えっ……誰?」  遠過ぎて、誰の声かまでは聞こえない。だが……自分を信じ、愛してくれている気持ちは伝わった。 「……北谷、せんぱい……?」  北谷斗眞は──生前、名前の方を呼ぶことはなかった。そして自分も、苗字でしか呼ばなかった。だが、心の中では──お互い、名を呼ぶぐらい、思い合っていたと思う。  ──もっと耳を傾けていれば、その声にも気づけたのに……ごめんなさい、だけど── 「斗眞、先輩……ありがとうっ!」  そう、言えた瞬間、ぱあんっと星空が消えて、周囲がこの世の景色に戻った。  吹き抜け天井が遠くなり、冬晟が近くなる──冬晟の唇が、ゆっくりと降りてきた。あたたかくて、滑らかで……斗眞とキスしたら、こんな風なのではないかと──密かに想像したのと同じだった。 「あぁ……斗眞、せんぱい……」 「……俺は、冬晟だよ、護」  冬晟のその言葉で、護は完全に、現実に戻った。 「……あっ」 「ひどいな……」  冬晟は言った言葉通り、憮然としていた。 「ごっ、ごめん……さっき、斗眞先輩の声がして」 「父さんの?──なんだ、じゃあ、護が戻ってこれたのは、父さんのおかげだったのか。……やっぱり、死んでる人間の力は強いな。それに、ちゃんと見守ってたんだな」 「……ん」  斗眞は急死だったらしいが──早くに成仏したのだろう。それで、さまよっている護と逢うことはできなかったが、思いは遺してくれていたのだ。……さまよう自由のある、いい霊(?)に復活した護には、それがわかる。 「護──もう大丈夫……なのか?」 「……うん。ああ、ごめん」  護は冬晟に抱きかかえられたまま、玄関をふり返った。水色の扉の向こうを見つめ…… 「一昨日、そこで伊東さんに遭って──持っていた怨恨が揺り起こされて、引きずられたんだ。……この玄関は、魔の境界みたいだ」 「人の店の玄関を、オカルトスポットみたいな言い方して……」 「いや、本当に。空間が歪んでるんだよね。……冬晟、霊感あるのに、わからないの?」 「わからない──けど、さっき玄関から入った時、店内の匂いが……空気が違うって思った。……いまは、感じないんだが」  自分がここで育て、信じるものの──酵母の匂い。いまは間違いなく、その匂いがする。  自分が死ぬまでの長い時間、ずっとここで、パンを焼き続けるだろう──その安堵に包まれ、ほっとする。  ──そのはず、だが…… 「……冬晟?」 「ん?」 「何か、いま……冬晟が、ぼやっとブレたのが見えたから」 「俺がブレた? ……そんな、泣きそうな目になってるからだろう」 「うわ、やだ……」  護は丸っこい指で、冬晟が指摘した、まだ泣きそうな目を隠した。  ──冬晟の元に戻れて……ここに来れて、本当に、よかった……。  そんな風に、考えていたから──… 「隠さなくていい。……それと、さっきの話」 「え?」  冬晟は護の手を、そっと握り…… 「自殺も、横領もしていない──その話を聞きたい。ずっと、俺は真相を知りたかったんだ。……辛いことかもしれないが、護の言葉で、話してくれないか?」  護の指の力が抜けてゆき……黒いどんぐり目がのぞいた。  まだ潤んでいたが──そこに濁りなどなかった。                  ☆  夕刻──。冬晟は階下で、明日のパンの仕込みをしている。護の話を聞きたいが、どうしてもこれだけは── 「当然だよ、ブーランジェ……なんだろ?」  護がそう言うと、冬晟は笑って、 「そうだ」  と、職人の顔になって、厨房へ入って行った。  その間、護は冬晟の部屋のベッドで、斗眞の遺品の書き付けを、読ませてもらっていた。 『護がもし、本当に罪を犯し、認めたというなら、自死という選択は絶対にしない』 『本條家の人達は、善良で真面目なのだと思う、だが、そのせいで、護が罪を犯したという世の中の勝手な悪意に、屈してしまっている、どうして、もっと護のことを信じ、尊厳を守ってやろうとしないのか、、、』 『本條護は、絶対に、やっていない、』  ……ずっと欲しかった言葉の数々が、力強く書き連ねられていた。もっと早く、これを読んでいれば──これだけで満足して、成仏していたかもしれないと思った。 「斗眞先輩……」  涙が落ち、文字が滲んだ。慌てて拭いたら擦れて、紙がしわしわになってしまった。 「あぁ……」  困惑していると、扉が開いた。仕込みを終えたらしい冬晟が、入って来る。 「電気くらい、点ければいいのに」  ぱっと明るくなって、室内が暗闇だったことに、ようやく気づいた。 「……パンはどう、上出来?」  泣いていたのと、紙を汚してしまったのを誤魔化したくて、護は明るく話を振った。 「ああ……酵母に問題はない様だ。明日も、ちゃんと焼き上がるだろう。けど──何か、館内の空気に違和感があるというか」 「えっ、どういうこと?」 「……わからない。まぁ、酵母が無事だから、よかったんだが」  それさえ無事なら、大概のことはいいらしい。冬晟は、それからきっぱり、話を変えてきて…… 「ところで……泣いていたのか?」 「……うん」  護はそれも誤魔化したかったが、止めた。  すぐ頷いたりして、子供っぽいなと自嘲も自覚もする。が、冬晟はそんな護を見て、別に子供っぽいとも思わず──隣に座り、後ろから肩に手をまわして寄り添う様にした後、護の手元を覗き込んだ。 「──これ、読んでるだけでも悔しいよな。俺も思う。どうして家族なのに、護の無実を信じて、証明してやろうともしないのか」 「ああ……僕は悔しいから、泣いてたわけじゃないんだよ」 「そうなのか? ……俺が護の立場なら、許さないけどな」  冬晟の言うこともわかる。だが、護は──いまとなっては、違っていた。 「もう、いいんだ。僕は、やっていない。それが真実だってことは、斗眞先輩にも……あの世に逝っている、じいちゃんや父さんとかには、わかっていると思うんだ。母さんも兄さんも、死んだ時にわかってくれるはずだ」 「でも……それじゃ遅くないか?」 「死んだら、わかるよ──もう、いいんだ」  冬晟はまだ、納得がいかない様子だ。 「だけど、生きている側としたら、死者の冤罪は拭ってやりたいと思うんだ。護……真相を教えてくれよ」 「……うん。いいけど、わかったからって、真犯人を暴こうなんて言い出さないでね」 「なんでだ?」 「約束してくれないなら、話さない」 「……わかったよ」  冬晟は、しぶしぶ承諾した。 「じゃあ、長くなるけど、話すよ。──僕が勤めていた局に、山田さんっていう女性がいたんだけど、その人が横領したんだ」  目が悪い客に代わって、貯金を下ろした時、タクシーまで送る間に金を抜いた。外には防犯カメラもないし、傍目には親切な郵便局員が一緒に見えていただろうから、誰も疑う目で見てなかった。 「ああ……」  三十年前は──いま程、防犯カメラもなかったのだろうし、当時は公務員だったのなら、そんな疑う目で見られなかったのかもしれない……と、冬晟は納得しようとしていた。 「山田さんは真面目な人だったんだけど……同じ職場の、伊東さん──いま、局長になっている、あの伊東さんのことが好きだったんだ。伊東さんは高級品好きな人で──ブランド品とか貢がせていたんだ。山田さんの恋慕を利用して」  当時のブランド品は、公務員の給料で買い続けられる額ではなかった。  そうなると、伊東は、「横領着服できるよね」と、彼女に囁いた。一種の踏み絵──「僕のことを本当に好きなら、できるよね?」を差し出され、山田は伊東に嫌われたくなかった……  さすがに局の金に手をつけることはできず、自分に出来ることで──常連の目の不自由な男性なら、騙せる。それに、護になら罪を着せられる……丸顔で呑気そうな護なら、噂を立てて追い込んでいけば、簡単に折れるのではないかと思った。  だが、護はそんな、弱い男ではなかった。逆に、山田の仕業だと見抜いていた。 「わかってたのか。じゃあなんで、警察に言わなかったんだ?」 「自首を勧めたんだ。……正直、それしかなかったし」  護が、やってない証拠が出せなかった様に、山田にも、やったという証拠はなかった。金は、伊東の持ち物に化けている。当然、伊東が山田の犯行だと言うはずがない。 「それまで、僕は我慢できるから、自首してくださいって──わかってくれると思ったんだけどな……」  山田は、そのことを伊東に相談し──とにかく車に乗せろと言われた。  女性の車なら油断して乗るだろうし、睡眠薬を飲ませてから運べばいい。それからのことは、伊東が決着をつける、と。  山田はその通りにして、その通りになった。  新幹線駅で、偶然を装い護に近づき、車に乗せて、缶コーヒーを開けて、飲ませた。……護は、偶然のフリということには気づいていた。だが、自首のことで相談しようとしているのだと思い、車に乗り、コーヒーはせっかく開けてくれたので、もらった。──それが、いけなかった。  途中、伊東と合流し、町外れにある下滝という景勝地へ、護を運んだ。  伊東は、眠ったままの護を背負って、滝まで行き──… 「このことは、ふたりだけの秘密だよ」  一応、護の字を真似して作った遺書を置き、そう言って微笑んだ伊東を見て、彼の恐ろしさに、我に返った──山田はその後、心身の調子を崩し、退職した。 「でも、その後、結婚して、子供も生まれて……いまもふつうに生活しているよ。自分はそそのかされただけだ、十分に後悔している、だからもういいでしょうって、心の中で言い聞かせてる。僕には見えるし、聞こえるんだ」 「くうっ」  冬晟が、空で拳を強く握る。 「そいつらは、いまもふつうに生きて──護さんだけ、死に損じゃないか!」 「損かもだけど……もう、どうにもならないよね。死んじゃってるし、どのみち、僕がやってない証拠は出せないし」 「──やっぱり許せない……許せない! こうして真相がわかったら、証拠がなくても、糾弾だけでもしてやりたい!」  特に伊東は、郵便局局長、理想の父、優しいおじいちゃん……恵まれた人生と人格者と称賛され──何食わぬ顔で、冬晟が焼いたパンを食べていたのだ。 「ゆるせな……っ」  空を握り潰さんとする冬晟の拳に、そっと、護の短い指が掛けられた。 「だめだよ。パンを作る手で、そんな憎しみを握っちゃ。美味しいパンが作れなくなる」 「護──…」 「それに、真犯人を暴くとか言わない約束で、話したんだよ。破るんなら、僕はもう、ここで消える」 「待っ、待ってくれ……!」  冬晟は慌てて掌を開き、護にしがみついた。 「冬晟はどうか、自分が焼きたいパンを作って。──僕はここに来て、きみのパンが食べられたこと、本当によかったと思ってる」 「そんな、もう最後だから言うけど、みたいなこと言って──頼むから、消えないでくれよ!」 「ははは……」  冬晟に必死に縋りつかれて──やけに愛おしく見えた。自分に誇りがあり、人と合う合わないがはっきりしていて、信念を曲げることが嫌──そんな強い男が、自分に泣きついている。 「冬晟は、正直で素直だよね。だから……僕は、安心して好きになれたのかな?」 「……?」 「冬晟のことを、好きになった理由。多分、それもある」  護は冬晟の頭を優しく撫で──怒り、縋りつく彼をなだめた。冬晟はすっかり、大人しくなって…… 「……なんか初めて、年上の男に感じるよ。父親に、おまえのいいところをおしえてやるって、諭されてる気分だ」 「あはは……!」  護にはウケて、妙に笑えた。勿論、茶化して笑ったのではない。冬晟も護に頭を預けたまま、一緒になって揺られていた。 「──冬晟のパン屋を、ずっと見ていたい。きみの傍にいたい。きみがこの世からいなくなるまで」 「護……」  冬晟は起き上がり、今度は正面から、護を抱きしめた。  何年も、パン生地を捏ねていた腕は、強い。だが、こんなに優しく包み込むこともできる。  最初、仕事に打ち込む冬晟の雰囲気に、ふわふわの幸せとは程遠いパンを作ってそうだと思った。その後、冬晟のパンを食べて、独特な風味があるが、旨いパンだとわかった。いまは──自分は冬晟のパンで、幸せになれる。 「俺のパンを、ずっと食べてくれるんだな?」 「うん。……時々、蕎麦も食べたくなるかもしれないけど。毎日、食べたいのは、冬晟のパンだよ」 「いくらでも、作ってやる。ここの酵母が生きている限り、ずっと──死ぬまで」  ──それは菌が? 冬晟が……?   愚問なので、護は尋ねなかったが。  これ以上、何も言わなくても……こうして、一緒にいるだけで、幸せだった。  過去の怨恨などはもう手離せて、明日も共に迎えられる──これで、時が止まってしまえばいいのに……  そこまで考えて、不意に哀しくなる。何かもっと、永遠に一緒と思えることが、できないだろうか……  しばらく黙っていると──どちらからともなく腕を取り、体を絡ませ合って、ふたり、ベッドに倒れこんだ。服を脱ぎ、自然に護が下になって、冬晟を見上げる。 「冬晟、……こういうの、初めてじゃないよな」 「……ああ」 「じゃあ……任せる。僕、したことがないんだ。誰とも」  護はひどく恥ずかしそうにしたが──そうであって欲しいと冬晟は思っていたから、安心した。 「わかった」  そう言って、キスをする──三度目で、ようやく舌を入れ、絡め合って……まるで口の中で、セックスというものをしているみたいだと、護は思った。  ──セッ……  そこで護は、顔を真っ赤にして、言った。 「でも、できるのかな。僕は霊で、冬晟は……」 「……大丈夫だ。こうして、キスが出来ているんだ。絶対、護となら出来る」  あらためて見つめ合い……互いの気持ちと体を探り合う。いろいろ思うこと、護には戸惑いもあるが──相手を受け容れ、全部を受けとめたかった。  冬晟の強い手指がのびて、護の後ろの双丘を分けた。底にある秘部を探ってゆく──その仕草がひどくこそばゆくて、護はびりっと身を竦ませた。 「いや、か?」 「こ、こそばゆかっただけ」  護はそう言って──いやではない証拠に、冬晟に体をくっつけ、続きをねだるみたいにして見せた……冬晟は護の額にキスをして、続きを始めた。  今度は、片腕で護の肩を抱き、あやす様にキスをしながら、もう片方の手で尻を撫でて、やさしく揉んだ。奥の秘部に、少しづつ指を伸ばし挿れてゆく。  その指の感触に、護がだいぶ慣れたとみられる頃、突き挿れた指を軸にし、他の手指で双丘の肉をあらためて揉んだ。護の体内に、鈍い痛みとむず痒さの様なものが、波及してゆく── 「あぁ……冬晟に、こねられてるみたい」  やわらかみのない男の体で、パンの様にこねられる部位など──体の前側に、あった。  あの風呂場で、ちらちらと見せられたものだ。その時は、あまり見たら悪い様に思ったが──いまはじっくりと眺める。護のものは、まだ純潔らしく、いたいけなかんじだった。それだけに、そっと触る。 「あっ、……そこは触らないで」 「大丈夫、優しくする」 「そういうことじゃな──ひゃっ……!」  冬晟に肩を抱かれていた腕を外され、上半身が不安定に傾く。そのことに気を取られていたら、ペニスと睾丸までを揉みながら掴まれ、護は情けない悲鳴を上げた。 「そ、そこは……っ、やめ」  他人に触られたことがない、というか、他人に触られる部位ではない。そんなところに冬晟が触れていることに──顔がいっきに熱くなって、暴発しそうになる。 「後ろがやわらかくなって……挿れ易くなった。そうか、護はこうすればいいんだ」 「──っ、……んっ」  何を、どうすればいいと言われているのかわからないが、声を出してだらしなく足を開いているのはみっともない気がして、護は口を閉じ、足も閉じた。すると…… 「……っふ、いっや……!」  閉じたばかりの股裏で、冬晟の硬い指が轟き、えも言われぬ衝動が、電流みたいに迸った。 「あぁ……っ?」 「ここが、気持ちいいだろう?」  冬晟の指の先──ひどく奥の脆い場所をいじられていた。そここそ、他人に触れられる様な場所ではなく──そんなところを突いてくる冬晟に対し、ひどいとさえ思った。 「そこ、は……あ……いやだ……っ」  やめてくれと願ったのに、更に、ペニスと睾丸と内側に差し込まれた指──そこを軸にして、臍から下にかけての全体を揺さぶられる。  生前、死んでからは当然、体感したことがないリズムに、護は自分から合わせようとしかけて……はっとした。  ──だめだ、そんなみっともないこと……でもっ。  護は薄すら目を開け、冬晟を見る……目を伏せていたが、その眼差しは真剣だった。初めてという年上の相手を翻弄したい──そんな気持ちは微塵もなく、ただ、ひたむきに、護の体を悦ばせようとしているのだ。  冬晟がする行為を受け容れて、応える──そうすれば、きっともっと深く繋がれる……初めてながら、そう確信した。  そして、護は自分からも、体を揺らした。すると、自然に内側も綻んで──冬晟の指がぐーっと呑まれてゆく。 「ああ……こんなに呑み込んでくれて──」  冬晟の指が、二本、三本……護の内側に差し込まれていった。その指先が、体の中にある凝りの様なものを、またひどく刺激した。 「あぁ、そこ……何?」 「ここ……前立腺の裏側なんだが……男なら誰でも、気持ちがいい場所だ。……霊でも、なんだな」 「──いま、霊とかって、言わない……んんっ……!」  霊であろうが──本当に長く忘れていた、男の衝動が甦っていた。昼間、冬晟がするのを目の当たりにした、あの、生命の放出──。  ──だめだ、こんなところでっ……冬晟に、見られ……る……  その冬晟に、体内の凝りを煽られたせいで、付け根から溢れた白い種が、いたいけなペニスを通って噴出させられていた──久しぶりのそれは、自分でどうすることもできず…… 「あぁ────ごめ、ん……っ」  冬晟の体や、シーツを汚してしまった。 「よかった、いってくれた。……これで、ちゃんと出来るってわかったな。じゃあ、これから本番だ」 「……」  前戯……だったのか、と、護は愕然とする。 「ん、どうかしたか?」 「ぜ、ぜん、前戯だったんだ……」 「それは、男同士なんだから──すぐに挿し入れたりできないよ。護は、初めてなんだから、ちゃんと解して……下準備をしないと」 「……そ、そうか」  男同士の性交が、実は護はよくわかっていない。男女の行為なら──普通の男として、知識はある。前戯と知って、その単語に、頭の中がじわっと濡れるみたいになった。それに、もどかしく感じたかもしれない。  いまはもっと強いもの……冬晟を感じられるものが欲しかった。そう、それは── 「俺のを……挿れていっていいか?」 「……うん」  冬晟のものは、風呂場で見た時のよりも、太く、いきり立っていた。早くどうにかしてやらないと辛いんじゃないか──気になっていた。 「いいけど……入る、かな?」 「……大丈夫だ」  何故かはわからないが──護の中は、濡れていた。勿論、男のそこが濡れるということはない。だから、不思議なのだが……  ──女みたいに、濡れて受け容れられるって、思っているのか……霊体だから、思っている通りに体がなってしまうとか……?  と、冬晟は妙に冷静に分析してしまった。  それ以外は、護の体は生きている人間と同じ……何も変わらなかった。  冬晟は、護の濡れたそこへ、自分のものを当てた。そっと添わせただけで、護の肉襞に、じわじわと呑みこまれてゆく── 「あぁ──…」 「……ああ」  初めて、繋がる──その体感に、ふたり同時に声を洩らした。 「あぁ……冬晟……」  護は、初めて他人を……愛するものを受け容れる行為に──何の痛みも抵抗も感じなかった。もっと恥ずかしいことだと思い、正直、怖かった──生前は。だが、全然違った。 「冬晟、気持ちいい……極楽、って言うより、天国……?」 「何、言ってるんだ。──これから、いくんだぞ」 「……え?」  冬晟の腰がしなる様に動き、体をぐっと掴まれる。それだけで内側が痺れたが、もっと大きなうねりが、体内外から全身を打ちつけ始めた。 「──っ! あっ、あっ……ああんっ!」  こんな声を出したいわけではないのに──好きな相手に揺さぶられると、人間、こんな喘ぎ声しか出せなくなるのだと、護は初めて知る。 「あぁ……っ、はっ、あぁ」  冬晟も──久しぶりの行為だった。少なくとも、自分の店を出してからは、誰ともしていない。そんな時間も余裕もなかったから。  それに──護ほど、好きな相手はいなかった。こんなに心と身の底から愛したのが、三十年も前に死んだ男で、霊だなんて……それなのに、これほどまでに熱い衝動に、突き動かされるなんて……! 「護っ──はぁ、ああ……っ」  挿入当初、斜めからだった体位を、正面からに立て直し、護を見下ろしながら打ちつけていた。はるかに年上のわりに、あどけない体で揺さぶられている護を見て、更に昂らされていた。  お互い──繋がってから、こんなに激しくなるとは思わなかった。護の方は、冬晟に揺らされていると、死にそうだとまで思ってしまう──自分はすでに、それをクリアしているが…… 「……し、死にそうっ!」  律動の合間に、必死にもがいて、そう叫んで見せる……が、冬晟は鎮まってくれない。本能のままのリズムに、護は穿たれ続ける。  これ以上、護の奥へは、いけないところまでゆき着き──そこでようやく、止まった。 「あ、冬晟っ……あっ」  冬晟と癒着している奥底に愉悦を感じ、無自覚に締めつけていると──そこに、冬晟の種が沁み渡っていくのがわかった……。  ──冬晟……いった、のかな……  そっと、冬晟を見遣る。どんな顔をしているのか、少し見るのが怖い……と、思っていたら、不意に冬晟と目が合った。  どきっとするぐらい、あの男に似ていて、護はびくっと身を震わせた。 「……護?」 「──なんでもない……」  護は目を瞑った。一瞬、脳裏に浮かんだ男のことを、隠す様に。 「冬晟──出来た、かな」 「ああ……護の奥まで、いった。大満足だ」 「……ふふ」  体の奥に、熱いものを感じる。これが、冬晟の『生命』──。 「あぁ……もっと」  もっと、冬晟の生命を感じたかった。それなのに…… 「護……見かけによらず、欲しがりだったんだな」 「そんな言い方、しないでくれよ」  心外だ。誰にでもこうは、きっとならないし、第一、生きている時は誰ともできずに、自分は死んだのだから…… 「もっと、なんて言うから。──俺も、もっと抱きたい。ずっと抱いていたい」 「冬晟……僕も──」  冬晟は護を、護は冬晟を感じながら、目を閉じる……。  瞼の裏は真っ暗……ではなく、ちかちかと、星みたいな輝きが見えた。たくさんあっても、どれも掴むことはできない星々──だが、どれもいらない。お互いに、お互いがいればいい……  ふと、冬晟だけが目を開けた。  そんな冬晟に──闇が迫ってきた。突然、暗黒に取り囲まれて、戸惑う。  ──何だ? いきなり、暗くなって……  そして──火を点けられた様な苦しみが全身に走る。息が、出来ない……! 「……あ──…!」  この感覚に、自分は覚えがあった。  ──でも、何処でっ……?!  冬晟は必死に思い出そうとするが──わからない代わりに、濁色の奔流が広がる映像が、眼前に映し出された。  ──闇に、呑まれる……!
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