七 もっとパンを

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七 もっとパンを

 翌朝……朝だという感覚はあるのに、辺りは異様に暗かった。  明るさはおろか、時がない空間──自分が元々いたのは、こんな場所だったことを、護は思い出さされる。  ──それで、ここに来て、久しぶりに朝の陽光を見たんだ……  まさか、これまでのことは夢だったのだろうかと、焦りながら、護は起き上がった。  ゆうべ冬晟に抱かれた痕跡は、体に残っていて──それに、ほっとした。  が、隣に冬晟はいない。温もりもない。 「冬晟……もう、店に出たのか?」  きっとそうだ。いつも、そうではないか。自分より先に起き出し、階下でパンを焼き上げているのだ──ゆうべの今朝で、早く会いたい。  護は、今日の気分……何故か黒シャツにブラックジーンズと、全身黒の格好になって、部屋の外に出た。  階下の売場を見ると、同様に黒いワンピースを着た星名が、ひとりで佇んでいた。 「星名さん……?」  美女の瞳はそのままだが、表情はひどく沈んでいた。その顔つきのままで、口を開く。 「今日は四十九日の法要があって、店は休みなんです」 「ああ……どうりで、売場に何もない」  階段を、足を使って一段一段降りながら、護はパンも何もない店を見渡した。そして、それは変だと気づく。 「あれ? でも、昨日──冬晟は仕込みをしていたけど」  硝子張りの厨房に、目を向ける。……そこもがらんとしており、冬晟も、いなかった。 「今日は、その、兄さんの──四十九日なんです」 「…………えっ?」  意味が──いや、わけがわからない。 「だから今日、あなたにお願いしたいことがあって、ここに来ました」  星名の生命波動に、冗談を言っている波は、かすかにも出ていない。……本気なのだ。 「お父さんの、学生時代の友人の方ですよね? 写真で、見たことがあります。お名前は確か、本條さん……」 「ええ、まぁ……」 「もう、かなり昔に亡くなられていますよね。だからどうか……兄をちゃんと、あの世に連れていってやって欲しいんです」 「──え……」 「兄は死んだ後も……まだ、ここでパンを作っているのはわかっていました。できれば、気の済むまで、そうさせてあげたい。だけど、兄のパンは、兄にしか焼けないし──それにどういうわけか、兄が作っていた酵母も全滅してしまって」 「ええっ!?」  そんなはずはない。ここで育つ天然酵母で、冬晟はパンを作っており、昨日もそうしていたし、酵母も無事だと言っていた── 「いまは別の酵母を使って、パンは作っていますが……前と同じパンは、もう出来ないんです。いつまでも、中途半端にパン屋を営業させるわけにはいきません。残された私達は、私達にできることをして、この『エアデ』を続けるしかなくて──でも、兄がここでそれを見たら、嫌だと思うんです。だから、もう……成仏して欲しい」  成仏も何も──冬晟が死んだというのは? 到底、信じられるわけがないのだが…… 「冬晟は、どうして……本当に死んだの?」 「この梅雨終わりに──トンネル向こうの海沿いの道で、車ごと土砂崩れに巻き込まれたんです。……二日後、海中から遺体で発見されました」 「……」  トンネル向こうの蕎麦屋の前に赤いコーンが出ていて、通行止め表示があるのは見た。まさか、その先であったという土砂崩れで……? 「……いま、冬晟はどうして、ここにいないんだ? いつもなら、店にいるだろうに」 「さぁ…… 今日みたいな日くらいは、事故現場にいるのかも。それか、もしかしたら、法要の会場にいるのか……」 「──そんな」  護は意識を集中させ──冬晟が、いまいる場所を突きとめる。 「……!」  冬晟は……土砂崩れがあった場所──から、海沿いを進んだ先にある、かつて護が落とされて死んだ、あの滝の傍に立っていた。  その立ち姿を見て──生者ならあるはずの、生命波動が出ていないのに気づく。  ──どうして、いままで、わからなかったんだろう……  冬晟が、すでにこの世の人ではないと認識した、その瞬間──この館から、冬晟の思いや経緯などが、ゆっくりと降りて、伝わってきた……  護にとって、思い出のあるこの場所を、冬晟が買ったのは、本当に偶然だった。  ここでなら、いい酵母が育ち、自分が焼きたいパンを作れる──その直感だけだった。  正直、自分の資金力ではハイリスクな出店だったが、仕事においては特に、他人と合わせられない自分は、一刻も早く自分の店を出したかった。  同性愛者だから家族を持つこともないだろうし、一生かけて働き、密かに好きな人のことを思って過ごそう……かつて父親も、その人の幸せを願って生きようとしたらしいから、自分もそうやって──そんな風に、考えていた。  密かに好きなのは、三十年も前にこの世からいなくなってしまった、父の思い人、本條護──逢ってみたかった。  自分が斗眞の息子だと名乗ったら、どんなリアクションをしてくるだろう?   どんな声で話し、自分のことをなんと呼んでくれるだろう? 出来れば呼び捨てにして欲しい。父親みたいに……恋人の様に。  そして、もし、自分の焼いたパンを食べてくれたら、どんなことを言ってくれるだろう……?   ……そんなことを想像していた。  ──どうして、僕がここに現れたのか、やっと全部、わかった……  冬晟の、その気持ちに呼ばれたのだ。そしてそれは、冬晟が亡くなったから──死んだばかりの霊体には、不安定な力が働く。  特に冬晟は、急な事故死だったらしい。そういう場合、大きな不安が生じて、時に渦を巻く程になる。その渦に引き込まれる形で、護はこの場所に呼ばれたのだ。それに、この館が不思議な境界になっているからもある。  ──いろんな条件が重なって、この状態になっていたんだ。……だけど、こうして呼ばれてきて、本当によかった。  こうなるまで、ずっと、さまよっていた。どうしたらいいのか、わからなかった。が、いまはもう……怒りや恨みは昇華した。これからは、自分の意志で、どうすることもできる。  ──だから、僕はもう、単に、さまよっているのとは違う。  だが、冬晟は──四十九日のこの日、あの世にいかなければ、明日からは、さまよえる霊体となる。勿論、気の済むまでいてもいいのだが……  この世はどんどん、変わっていく──冬晟の思いとは異なる方へも。冬晟は、それを許せない性格のはずだ。星名の言う通り、ここで見るのは辛いだろう……。  ──冬晟の元に行ったら……星名さんの望む通り、すぐに成仏させるべき、なんだろうな……  もう亡くなっている現実をわからせ、天然酵母も死んでいることを伝え、ここでパンを作ることをあきらめさせ──エアデは妹夫婦に託し、一緒にいこう、と、諭す……。  自分にそれができるかどうか──自信がないまま、護は館を出て、空を翔んだ。  冬晟とも行った海水浴場、初めてキスをしたお風呂、その先のトンネルを抜け、旨かった蕎麦屋も通過し、海沿いの道をなぞってゆく。道路の上には、まだ泥砂が残っており、砂埃がひどい。  やがて、土砂崩れの現場に差し掛かった。護は息を詰め、見下ろしたが──そこに冬晟の想念は感じられなかった。  ──単に巻き込まれた場所で、思い入れがないからか……  わかる気はする。自分も、自分が死んだあの滝に、こだわりはない。眠ったまま落とされた、それだけの場所だから。  だが、その滝が──冬晟にとっては、この世で唯一、護と接することができた、思い入れのある場所だった。それに、ここへ来た帰りに災害で死んだのだから──彼にとっての最後の場所は、ここなのだろう。  その滝に、死んでから初めて、護は訪れた。  通称、下滝──この辺りの住民なら一度は来たことのある、町の景勝地だ。  夏の終わり、人の気配はなく、入口に車が一台、停まっているだけ。──おそらく現実では海に落ちて廃車になっている、冬晟の車だ……  護は地面に降りて、土の上を歩き始めた。ぬかるみに、冬晟のものらしい靴跡があった。自分が歩いてきた後ろを見ると……跡は残っておらず、靴も汚れてなかった。この差が、冬晟と自分の違いなのだと思う。  間もなく滝に着き──手前にある大きな平岩に、冬晟は腰掛けていた。 「冬晟」  冬晟が、ふり返った。  ……昨日と変わらない、昨夜と同じ、冬晟だった。 「護……よく、ここにいるってわかったな。──俺、気がついたら、ここへ来ていて……」  と、冬晟は言った。何故、自分がここにいるのか、わからないでいる様子だ。 「そうだよ。僕にはわかるんだ。きみが何処にいても……何をしたいかも」 「……それは?」  護の手には、エアデの売場にあった籠が握られていた。店を出る時に持っていたわけではなく、いまここで必要だと感じ、護が念で取り寄せ、出現させたものだった。 「きみの作ったパン、サンドイッチ。今日はここで食べよう」  勿論、今日は店休だし、実際はないものだから、これも念で出現させたパンだ。 「──よく、こんな場所で、そんなことしようって、言えるな」 「はは、自分が死んだ場所なのに、って?」  護は、さすがに、自分が落とされて死んだ滝壷を見下ろす気にはなれなかったが──冬晟が以前、そこに献花をしている光景が見えた。 「花を供えてくれてたんだな。……どうせなら、パンを供えてくれたらよかったのに」  護はそう言って、手にしている籠を持ち上げる。 「だから、今日、食べよう?」 「……本当は、あの日、パンも持ってきていたんだ。……ほら」  冬晟の掌に、クロワッサンが載せられていた。──いつの間に、何処から出したのだろう? 「それ……?」 「これ……クロワッサンだけは、父さんが作っていたものと同じ配合なんだ。護に供えるなら、これだろうなと思って……」  冬晟の手から、護はそのクロワッサンを受け取った。外皮がぽろぽろと剥がれ、足元に散らばるが、摘んだ分を口に入れる。……いままで食べたクロワッサンの中で、一番美味しい。 「旨っ。さすがにクロワッサンぐらいは食べたことあるけど──これが一番、美味しい」 「よかった……。父さんは、勤めていたホテルの、このクロワッサンに惚れて、本当はこれだけで店をしたかったらしいんだ。でも、それは無理だから、他のパンも作っていた。そのせいか、俺は父さんのパンの中で、このクロワッサンが一番好きで、継ぎたいと思えるのも、これだけだった」 「このクロワッサンだけ……って、それも何かひどいな」 「俺は、俺の理想とするパンがあるからな。……それで、いいだろう?」 「うん……」  もう一口、齧ってみる。ふわっとした、誰しもの口の中に、やさしい甘さを感じさせる、斗眞らしいパンだと思った。 「これが、斗眞先輩のパンなんだな。……ありがとう、食べさせてくれて。次は、冬晟のパンを食べよう」  籠の中には、護が思うところの冬晟のパンが詰まっていた。──それらを見て、 「まあまあの出来だな」  と、冬晟が言った。 「でも、何だか……早く、自分のパンを作りたくなってきた。もう、戻ろうか」 「……冬晟」  冬晟は──店に戻るつもりでいる。  現実には廃車になった車に乗って、ここに来ていることからも……冬晟は彼の時空間の中で、ふつうに生きているのだと思われた。  ──義弟の三城貴仁、あの人と同じ厨房にいた時みたいなかんじで……  この世の現実と、冬晟の空間が、交わらずに重なっているのだ。星名が、冬晟や護を見るのも、その別空間が二重写しに見えている状態だ。それが霊能力というものなのだろう。  ──じゃあ、まだしばらくは……星名さん、冬晟が見えてしまうかな……  冬晟は、まだまだパンを作り、店をやっていくつもりだから、そういうことになる。  人間からすれば、数年、数十年もの時を、冬晟の気が済むまで、魂が納得するまで──その間、自分もその傍にいることになるのだろう。  ──ごめん、星名さん。やっぱり、僕から止めることはできない……  それどころか、寄り添うことを選んでしまった。 「……うん。一緒に帰ろう。僕も、ずっと、いるから」 「ああ。もっとパンを……焼きたいし、食べさせたい」  車へ戻る道中、冬晟は籠の中から、キャラメリゼされたバナナが載ったプルンダー……ペストリーを取った。 「いいチョイスだね。僕にも半分、頂戴」  ふたりで同じパンを分かち合う──斗眞のクロワッサンを食べた後だと、父と息子の違いが、よくわかった。 「これ、美味しいんだけど……誰しもにやさしいパンじゃないよね」 「そう言えば、最初に食べた時、口の中を切ってたよな。──いまも苦手か?」 「ううん……好きだよ」  護の口の中で、カラメルと生地の破片が散らばってゆく…… 「──これが好き。甘いと思ったら、苦かったりして。他のパンでも、不思議な酸味があったり、でも、ふわっと香ばしかったりして……冬晟のパンは複雑で面白いと言うか、やっぱり美味しいよ。もっと食べたいし──他の人にも食べてもらいたいなぁ」  もっとパンを。──冬晟と、パン屋さんを、自分もやりたい……。 「じゃあ、早く、店に戻ろう。一緒にだ」 「そうだね、一緒に……」  手を握り合う。冬晟の手指は少し、強い。だが、強いだけじゃない……。  もし、冬晟が自分の死を受け容れ──られずに、迷ったりする時があったら、自分が手を引いて、導こう。その為にも、一緒にいる。絶対に、この手を離さない。  そう思って、護は手を握り返す──
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